トヨタコネクティッド20周年企画連載 虹を架ける仲間達

第1章

2.e-Tower狂騒曲

GMSの創業から2年間は良くも悪くもe-Towerに振り回された。設立準備段階の助走の勢いそのままに、会社設立と同時にトップスピードで社員全員が一丸となって全力疾走。息つく暇もない怒涛の日々が続いた。今週はこの期間の出来事を関係者の回想をもとに紹介する。

1万3000台の重圧

「いまさらながら、よくもe-Towerなどという化け物を作ったものだ」と2016年まで副社長を務めた小島修は振り返る。小島の前職は富士通サポート&サービス(以下、FSAS)のトヨタ担当のセールスエンジニアだった。中古車画像システムからe-Towerの開発・展開を業務改善支援室のメンバーとともに手がけてきた。そして、GMS設立前には現在の副本部長の京近渉と2人でe-Towerビジネスのフィージビリティスタディをおこない、売上や収益予想の事業計画の立案を担った。そして、会社設立とともに取締役本部長に就任している。
FSAS時代の小島の役職は課長職だった。営業担当としては自分の取引先の新会社設立に関われるだけでも営業マン冥利に尽きる。ましてやその会社の取締役に就任するなんて。しかも、その新会社はトヨタの関連会社である。課長・小島修のサラリーマン人生においては青天の霹靂、驚天動地の大事件だった。もちろん、それだけ小島のこれまでの仕事ぶりがトヨタから高く評価され、期待されていたゆえの抜擢人事である。
しかし、それはそのまま小島の上に、とてつもなく大きな責任・プレッシャーとなって重くのしかかってきた。「なんとか、設立時に予定している1万3000台の受注をしっかり決めて、e-Towerのビジネスを軌道に乗せなくてはいけない」。すべての事業計画がこの1万3000台の受注をベースに組み立てられていた。
小島は前職の経験からこの1万3000台という数字がいかに大変な数であり、また営業というのはなかなか一筋縄ではいかないことも十分承知していた。何が起こるかわからないのが営業の現場。計画通りにモノを作っていく製造業とは大きく異なる。豊田と友山も十分そのことがわかっていたからこそ、小島に取締役本部長の要職を任せたのだ。小島はこの大役をなんとか貫徹したい一心で仕事に没頭していた。企画・開発の段階から関わり、それこそ赤ん坊の頃から友山たちと一緒に育ててきたe-Towerが全国のコンビニの店頭で稼働する姿をぜひ見てみたかった。

都内50店舗での試験導入が決定

しかし、ことはそう順調には進まなかった。会社設立の翌月、11月にコンビニF社で東京都内50店舗での試験導入が決まった。この段階でe-Towerの開発はやっとフレームが完成したばかりの状況だった。試験導入は12月。間に合うかどうかギリギリのスケジュールだった。
試験導入というのはそれが正式に採用されるかどうかのテストである。それこそ、会社の存続がかかった正念場がいきなりやってきた。開発は別のチームがやっていたので、自分たちは「できることをやろう!」ということになり、12月11日と12日の2日間、業務部長の上田利明を留守番として、残りの全員で手分けして、導入が予定されている都内の店舗の下見に出かけた。もちろん、小島も同行した。年末ということもあって街中はクリスマスモード全開。その喧騒の中を名古屋からやってきた24人の男たちがポケット地図を頼りに一軒一軒、店舗を探し、電源はちゃんと確保できているか?など設置スペースを現地現物で確認した。
そして、翌13日、小島は一人、e-Towerの製造委託先である株式会社PFUの工場がある金沢へ向かう。e-Towerの組み付け作業を確認するためである。そして、翌14日にはジャーナリストの取材に同席するためにいったん名古屋に戻り、翌15日、金曜日の夕方に再び金沢へ。そして、その夜から翌々日、17日の日曜日まで徹夜での組み付け作業に立ち会い、出荷前テストを実施した。そして、なんとか無事に、17日の夕方、出荷完了。小島は50台の試験導入機がトラックに載せられて東京に向かったのを見届けて、その日の夜の飛行機で東京に移動した。

e-Tower製造
金沢にある株式会社PFUの工場内のe-Tower製造現場。トヨタから改善チームが現地に派遣され、生産ラインが一から作り直されていた。

そして、18日の月曜日には各店舗への試験導入機の設置がスタート。これにも下見の時と同様にGMSのメンバーが総出で対応した。そこには営業部、サービス技術部、システムインテグレーション部といった組織の壁なんて存在しなかった。全員がGMSの社員であり、心を一つにして団結していた。まさにベンチャー企業そのものであった。
「創業期だからこそかもしれませんが、あの時の結束力は凄かった」と小島はいう。そして「あの2週間はよく働いたし、東京と金沢、名古屋を行ったり来たり。自分のことながら、よく動けたなと感心する」と語る。

スケジュール-1
2000年12月の小島のスケジュール表。東京・金沢・名古屋を飛び回っていた。

衛星アンテナの設置

この50台の試験導入機の設置と並行して、もう一つ、大きなプロジェクトが動いていた。トヨタのサービス部が所轄する愛知県・日進市の研修センターの敷地内に2001年1月に設置した衛星通信用のパラボラ・アンテナの設置工事である。衛星アンテナはトヨタが購入し、GMSはそれを借り受けて衛星配信事業をスタートした。目的は全国のコンビニに設置するe-Towerに情報を配信するため。
当初は光ファイバー網の利用も検討した。しかし、当時はブロードバンド時代の前夜。有線での通信は従量課金のため、膨大な利用料の負担が発生する。トヨタグループの通信事業会社で、GAZOO端末の展開やG-Towerの設置で協力してもらっていたトヨタデジタルクルーズ(現在のトヨタシステムズ)からのアドバイスもあり、動画など大容量のコンテンツは衛星を使って配信することにしたのだ。これだと店舗に衛星ルーターを設置するだけで瞬時に配信ができる。
これは裏話だが、この時すでに友山の頭にはGAZOO事業の海外展開の構想があり、衛星通信であれば、アンテナの角度を変えれば海外に配信できる。そんな目論見もあったようだ。
配信にはJBTV株式会社の衛星を使用。大きな帯域をまとめて契約し、その月額使用料はかなりの金額だった。しかし膨大な使用料も1万3000台のe-Towerが設置されれば、1台あたり数千円。十分にペイできる。
さてこの衛星アンテナの設置にあたってはもう一つエピソードがある。前述の通り、このアンテナを購入し、設置したのはトヨタであるが、設置にあたってその社内交渉や段取りを担当したのはGMSの業務部長だった上田利明である。上田はまず設置場所を確保するため、日進研修センターの管理をしているセンター内の総務部を訪ね、了承を得た。通常であれば、研修センターを利用しているサービス部にも一言、断りを入れるところだが、上田はあえてそれをやらなかった。なぜなら、工事が遅れるのが嫌だったからだ。「大家(管理者)がOKしているのに、なんでサービス部に断りを入れる必要があるの?」と上田はどんどん話を進めていった。
突然始まった工事にサービス部はびっくり。「何事?」「またしてもGMSか?」ということになったが、時すでに遅し。設置工事はなんとか予定納期に間に合った。さらに、上田はアンテナだけでなく、たくさんのサーバーを設置するデータセンターをサービス部のスペースを潰して、ちゃっかり開設している。
なんとも強引というか、上田の豪腕ぶりには驚かされる。しかし、これくらいやらないと、何事も動かなかったし、ネット事業で戦う上でスピードは何よりも必要なことだった。そして、当時のGMSにはそれをやりきる勢いと突破力があった。

衛星アンテナ
日進の研修センターに設置された衛星アンテナ。現在はデータセンターがクラウドに移行したため、撤去されている。GMSのシンボル的存在だった。

一難去ってまた一難。トラブルが頻発

無事、試験導入機の設置は完了し、年が明けて2001年1月から試験運用がスタートした。e-Towerの設置スペースは幅60センチ、奥行き45センチ。畳半畳にも満たない狭いスペースながら、コンサートチケットの販売、写真プリント、音楽ダウンロードなどのコンテンツを揃え、無人でコンビニ全体の日商の約10分の1を売り上げる、とても生産性の高い端末だった。
格安国際電話サービスが外国人労働者の間で爆発的に人気を博したり、工事関係者が竣工報告書作成用にデジカメプリントを頻繁に利用するなど、想定外のユーザーや使い方が出現した。「何事もやってみなければ、わからない」「インフラを用意すれば、ユーザーがいろいろな使い方を作り出す」ということを学んだ。
一方、この試験導入期間中に、大小合わせていろいろなトラブルが発生した。例えば、e-Tower端末からレジに持っていくレシートがプリントアウトされないというトラブルが散発した。今度は全員総出でお詫び行脚。中でも営業サポート室の田村誠は「謝り侍」と呼ばれ、その任務を率先して請け負った。取締役営業部長の藤井朗彦も「もう~、ええ加減にしてほしいわ」とぼやきながら、せっせと頭を下げて回った。それは、さながらトヨタの創業期にトラブルが続出。販売店と一緒になってトラックの故障に対応し、クレームに頭を下げて回ったトヨタの先人たちの姿にダブっていた。
また、こんなこともあった。ある時、F社のある店舗でトラブルが発生。現在の常務取締役で当時はサービス技術部長だった木稲哲郎が謝罪に訪問すると店長が烈火のごとく怒っている。お昼時の忙しい時間帯で、店長がトラブル対応をしていたので、レジの人手が足りなくなって長蛇の列ができた。おかげで販売機会が失われた。「この損害をどうしてくれるんだ!」というクレームだった。これを木稲が友山に報告したところ、友山の指示は「棚の蕎麦を全部買って帰れ!」だった。そして本当に、蕎麦をすべて購入した。これには店長もびっくり。そして、これを機に、一転してこの店長との間に強い信頼関係が生まれた。
クライアントの立場になって考え、できることはなんでもやる。泥臭くてもいい、粘り強く対応する。ピンチをチャンスに変える。当時はこんなことの連続だった。
「CMビジョン」と呼ばれたe-Towerの上部に設置された18インチディスプレイ。これにトヨタの新車情報などの動画を24時間流していた。いまでは電車のドアの上などに設置されているデジタルサイネージの先駆けとなるコンテンツだ。JR東日本が「トレインチャンネル」を初めて山手線に導入したのが2002年なので、1年早く採用していたことになる。動画は日進のデータセンターから衛星通信で配信。これにより店舗には広告収入が入り、そのお金で月々のe-Towerの保守料がほぼまかなえる。そんな画期的なビジネスモデルになっていた。
しかし、このコンテンツでもトラブルが発生。ビデオボードに問題があって、突然、音量が最大ボリュームになり、店内は大音響に包まれる。お客様は驚くし、子どもは泣き出す始末。当然、店長はカンカンに怒って、「こんなものはいますぐ持って帰れ!」とクレームが入る。すぐさま謝り侍たちが菓子折りを持って、店舗を訪問。丁重にお詫びした。

音量障害
CM ビジョンの音量障害の原因と目されたビデオボード。イスラエル製だったため、図面を取り寄せるのに一苦労。さらに回路図がなかったのでFSASからシンクロスコープ(測定器)を借りて信号を測定して調査した。結局原因がわからず、ビデオボードごと交換した。

大型キャンセルが発生。お前ら死ぬなよ。

営業部長の藤井たちのお詫び行脚の一方で、本部長の小島は障害対応や品質向上対策でF社の本社があった池袋と株式会社PFUの工場がある金沢を往復する日が続いていた。そして、そんなある日、衝撃的な出来事が起こる。
それは忘れもしない、2001年5月9日のこと。コンビニ5社のうちの3社が豊田の下を訪ね、導入の断念を伝えてきたのだ。この通告によって、1万3000台の受注見込みが半数以下の6000台になってしまった。その結果、GMSはたちまち会社存続の危機を迎える。
この日の午後3時、GAZOO事業部の豊田の役員室に小島が呼ばれた。部屋に入った時、豊田が開口一番に発した言葉が有名な「お前ら、死ぬなよ!」だった。この言葉にはいろいろな意味が込められていたと思う。小島なりの解釈は、企業経営で一番大事なことは継続すること。すなわち「永続」である。そのことを「死ぬなよ!」という言葉で表現されたのだと受け止めている。
これで予定していた受注台数の半分超がキャンセルになってしまった。つまりは見込んでいた売上がざっくり半分となる。そうなると資本金わずか1億5000万円の中小企業では、たちまち立ちいかなくなる。JRセントラルタワーズの家賃や衛星通信の通信費など固定費の支払いができない。資金ショートに陥る。会社設立からわずか7ヶ月にして大ピンチの到来。銀行からお金を借りなければいけない。無借金経営のトヨタ自動車では経験できない大事件の到来に、もう、上へ下への大騒動であった。

もう無理だ。導入は諦めよう。

そして、さらなる危機がGMSを襲う。今度の震源地はF社だった。年初から始まった50台の試験導入だが試験期間の半年が過ぎても、一向に本格導入の契約に至っていなかった。
2001年9月22日土曜日の朝、東京のホテルに宿泊していた小島の枕元の携帯電話が鳴って目を覚ます。時刻は8時30分と小島は鮮明に記憶している。電話をかけてきたのは友山だった。「F社への導入はもう諦めよう。これ以上の投資はできない」。友山の下にF社から連絡があり、さらなる価格の引き下げを要求されたのだ。
そもそも、5社で1万3000台の大口納入という名目で、ただでさえe-Towerの価格は低く抑えられていた。そして、7000台のキャンセル。さらに、ここにきて、さらなる値下げ要求に応じるのは難しい。友山と小島は話し合って、とりあえずF社に対しては、社長に相談する時間が欲しいという口実で回答を翌週まで待ってもらうことにした。
そして3連休明けの火曜日、小島はGMSの朝の幹部会を終えると、秘書にだけ行き先を告げて、新幹線に飛び乗る。向かったのは鳥取三洋株式会社(現在の三洋テクノソリューションズ鳥取株式会社)だった。e-Towerは鳥取三洋製の15インチと18インチの液晶ディスプレイを搭載していた。e-Towerの価格を下げるのであれば、もうここに頼み込むしか、当てはなかった。同社を小島が訪問するのは今回が初めて。しかも、当日のうちに名古屋に戻らなければならなかったため、交渉時間も限られていた。鳥取駅には午後4時に到着する。そこから、タクシーで行っても、交渉できる時間は45分ほどしかない。それでも、やりきるしかなかった。「ここしかもう、残されていないんだ」。小島は不退転の決意で会社の門をくぐった。そして、部屋に通されるや否や、挨拶もそこそこに、すぐさまホワイトボードに値引きの根拠を書いて説明した。とてもタフな交渉だったが、最終的に6万円値引きを承諾してもらった。

待望の受注が決まった!

そして、2週間後の10月5日の夕暮れ時に、東京の恵比寿にいた小島へGAZOO事業部統括の天野裕二氏から「契約書にハンをもらいました!」という待望の連絡が入った。F社と約5500台の契約が締結されたのだ。

スケジュール-2
2001年9月の小島のスケジュール表。25日は名古屋から鳥取へ。そしてとんぼ返りで名古屋に帰り、翌日、値下げの回答を持って東京のF社本部を訪問。まさに、綱渡りだったことがわかる。

今回はGMSの行動指針「謙虚・感謝・信念・情熱」そのままに、小島たちが最後まで諦めることなくギリギリまでチャレンジを続けたことが、取引先やクライアントの心を動かし、最大の危機を回避することができた。もし、ここで諦めていたら、e-Towerの事業は撤退を余儀なくされ、GMSは消滅していたかもしれない。
とはいえ、この受注を含めても、まだ受注予定の半分に達していない。残り約7000台の穴埋めをしなければ、存亡の危機を脱したとはいえないはずである。しかし、実際はこの時、GMSは最大の危機を脱したのである。なぜなら大型キャンセルが発生する以前から進めていたあるプロジェクトが完了していたからである。
次週はこの経営危機からの脱却の決め手となったこのプロジェクトについて詳しく紹介する。

この章の登場人物

  • 小島 修(こじま おさむ)
    トヨタコネクティッド元代表取締役副社長
    ガズーメディアサービス株式会社(現在のトヨタコネクティッド株式会社)初期メンバーである、「オリジナル29」の一人。寡黙で言い訳をしないその姿勢がトヨタ自動車から強い信頼を勝ち取っていた。無類のメカ好き。メカ好きであるが故、製図は得意であり、打ち合わせの場で書き上げたフリーハンドの図面が、それがそのまま製品になったこともあった。プライベートでも真空管アンプによる巨大な音響システムを趣味で組上げるなど、メカと共に人生を歩んできたと言っても過言では無いほど。
    創業当時、取締役本部長だった小島は、お酒が一滴も飲めないにも関わらず、遅くまでメンバーの酒に付き合い、夜明けまで仕事や人生の相談に乗ってきた。e-Tower事業では、FSAS時代の仲間をヘットハンティングし、現場改善を推進。仲間と共にリアルタイム監視と通知システムを自前で構築し、難局を乗り切った。また、後に登場する業務部長、上田とのコンビで、幾つもの海外事業体の設立でもその手腕を発揮した。「決して妥協を許さず、納得するまで行動し、簡単にあきらめない」その姿勢が多くの後進たちへと受け継がれていった。公私ともに、黒子としてTCを支えてきた功労者の一人。
  • 藤井 朗彦(ふじい あきひこ)
    トヨタホーム北関東代表取締役社長
    ガズーメディアサービス(現在のトヨタコネクティッド)初代取締役営業部長
    「オリジナル29」の一人で、GMS設立当時は取締役営業本部長。温和な性格で人望が厚く、人当たりのいい関西弁の語り口と粘り腰で数々の窮地を乗り越えてきた。彼の人間性を象徴するエピソードが一つある。
    創業当時、とあるクライアントから無理難題を要求する電話が、直接藤井に入った。ハンカチで額の汗を拭きながらの必死の応対は、かれこれ1時間近く続き藤井は電話にかかりきりになっていたが、最後は、「それはできません!」ときっぱりと周りに聞こえるほどの声を発し受話器を置いた。その瞬間、フロアから一斉に拍手が湧き上がった。実はフロアにいた全員が仕事をしながら、ずっと藤井の電話に耳を傾けていたのだ。「断っていただき、ありがとうございます!」それは全員から藤井の健闘と毅然とした態度に対する感謝と称賛の拍手だった。藤井は、当時の社員全員が同じ方向を向き、同じ目標の下で動けるように、自分の仕事をしっかりやりながら、常に周りの人の仕事にも関心を持ち、気を配っていた。
    「俺は何もでけへんで」と言いながら、一体感や団結力を生み出すことに奔走した。
  • 上田 利明(うえだ としあき)
    トヨタ自動車流通情報改善部 元グループ長
    ガズーメディアサービス(現在のトヨタコネクティッド)初代業務部長
    先の2人と同じく、「オリジナル29」の一人でGMS設立当時は業務部長。もとはトヨタ自動車で、新車物流改善の時代から豊田や友山と行動を共にしてきた古参メンバーの一人であり、懐刀的な存在。数字に強く、独特の感性で勘所を押さえる能力に優れた。当時はティアドロップサングラスにパンチパーマ、生粋の名古屋弁を基調とした“べらんめえ口調”で、行く先々の販売店に恐怖を与えていた。
    GMS時代では、衛星アンテナ設置までの段取りを、商人気質の粘り強さと大胆な駆け引きを伴った交渉力で押し進め、その剛腕ぶりは実に頼もしかった。しかし、実際は、とても繊細な性格で、常に胃痛と戦う日々を過ごしながらも、常に仲間の困りごとに気を配り、声がけや、時には自宅のバーベキューや鍋に招くなど、GMSの一体感醸成に貢献した。
  • 木稲 哲郎(このみ てつろう)
    トヨタコネクティッド常務取締役
    ガズーメディアサービス(現在のトヨタコネクティッド)初代サービス技術部長
    トヨタの基幹システムを担当するコーポレートIT部出身。「オリジナル29」の一人。温厚で物腰柔らかな性格で、社員だけでなく多くの客先での信頼を得ていた。電算機系への知識は豊富で、旧式のパソコンや携帯端末、昔のMacなどのApple製品などを多数コレクションするなど、オタクな一面も持つ。
    GMSではサービス技術部長という役職でありながらも、実際の仕事は外回り営業リーダー。e-Tower事業においては、当時の社長の豊田と一緒にコンビニ各社を回り、まだ完成していないe-Towerを売り込むため、自身の豊富な知識と資料片手にシステムの仕様を説明し、先方の要望を吸い上げては、急いで会社に戻りシステムに反映、その翌日には別の客先に赴くといった、多忙な日々を送っていた。その甲斐もあり最終的には多くの店舗への導入を実現させた。導入後も、端末トラブルの度に店舗を訪問し、事情を説明して頭を下げて謝罪に奔走し、副社長の友山からは、“あやまり侍大将”とまで呼ばれたことも。自身の特徴を最大限に活かし、一癖あるGMSの猛者たちと、専門領域の壁を超えて協力し、共通の目的に向かい共にやり遂げる、まさにTCの原点といえるチームづくりを実践した、TC黎明期の功労者の一人である。

著者プロフィール

  • 宮崎 秀敏(みやざき ひでとし)
    ネクスト・ワン代表取締役
    1962年、広島生まれ。1997年リクルートを退職後、ひょんな縁で業務改善支援室の活動に帯同。
    98年、同室の活動をまとめた書籍『ネクスト・ワン』(非売品)を上梓。会員誌の制作やコミュニティの運営などでGAZOO、G-BOOK、e-CRB、GAZOO Mura、GAZOO Racingなどの立ち上げに協力しながら取材活動を継続。