第5章 モビリティサービスの展開
モビリティ・サービス・プラットフォーマーへの挑戦
トヨタのコネクティッド戦略の第三の矢は「あらゆる異業種、IT企業と連携し『新たなモビリティサービスを創出』」である。これまでも異業種の連携というのはGAZOO、G-BOOKで経験はある。しかし、いま振り返れば、あの当時の連携は相手先の企業にとっては「せっかくトヨタから声がかかったのだ。まあ、お付き合いでやってみてもいいか?」的な社交的意味合いの強い連携に過ぎなかった。リスクはほとんどなかった。しかし、モビリティサービスでの連携はそれらとはまったく性質が異なる。双方にとって、これは本業分野での連携。企業の存続・発展・成長に関わる、極めてシビアな経営判断が求められるエクスクルーシブなものだった。この連携に関連したトヨタの投資総額も3000億円を超えるものになった。
保険会社とのコネクティッド連携
2016年4月1日、トヨタはトヨタファイナンシャルサービス株式会社(以下、TFS)、あいおいニッセイ同和損害保険株式会社(以下、あいおい損保)と3社共同でToyota Insurance Management Solution USA(TIMS)を米国カリフォルニア州に設立した。この新会社は、複数の保険会社に対し、車両データと連携するテレマティクス保険に必要なソリューションを提供する会社であった。TBDCに収集された車両のビッグデータから、契約者の運転挙動をスコア化。それを提携保険会社に提供した。
こうした自動車保険とコネクティッド技術の連携というのはもともと欧州で発達し、普及していた。欧州では昔から会社が幹部社員に対して社有車を提供する文化がある。それは課長職ならCクラス、エグゼクティブ職にはEクラスというように役職に応じて支給され、それが今日のセダンのセグメント分けにつながっている。それくらい、歴史は古く、広く浸透した企業文化であった。社有車は通勤や仕事で使う以外にもプライベートでも使用されていた。しかし、近年になって、社用利用とプライベートの利用を区分し、その利用状況を管理し、経費負担を会社と個人とで折半にして負担するという機運が高まる。特に欧州では自動車保険の保険料が高かったのでそれを折半したかった。そこで、保険会社が社有車に通信端末を取り付け、社用とプライベートを走行距離で管理し、走行距離に応じて保険料を負担するテレマティクス自動車保険が生まれ、普及してきた。欧州でのコネクティッドカーはこうした背景で発達してきた。
同様のテレマティクス自動車保険は、いち早く日本でも2004年4月からあいおい損保がG-BOOKと連動した実走行距離連動型自動車保険『PAID(ペイド)』を発売していた。自動車保険とコネクティッドの親和性は高く、古くから活用されてきた分野であった。
TIMではTCNAのデータサイエンス技術を利用して、このテレマティクス自動車保険をさらに進化させ、ドライバーの運転の仕方に応じて保険料が決まるまったく新しいコネクティッド連携の自動車保険を生み出した。安全運転を続けていれば、保険料が安くなる。これはユーザーにとって大きなメリットである。逆に危険な運転が多いドライバーは保険料が高くなるが、そもそもそういうユーザーはこの保険には加入しない。コネクティッド連携自動車保険はユーザーと保険会社の双方にメリットがあるwin-winのビジネスモデルであった。また、この保険加入をモチベーションとしてT-Connectの利用者が増えるので、トヨタのメリットも大きい。なお、この自動車保険は現在、国内では「トヨタつながるクルマの保険プラン」として、T-Connect会員向けにあいおい損保から発売されている。
モビリティサービスの模索
2015年、まだ残暑が残る9月のとある日。名古屋ミッドランドスクエアのe-TOYOTA部の役員応接室にはひと組の来客があった。当時、友山の秘書になりたてだった鶴田洋介は自分の席がまだe-TOYOTA部になく、同部の統括室の机に座って雑務を処理していた。すると役員応接から友山が顔を出し「ちょっと、来てくれ」と鶴田を呼んだ。どうやら、役員応接室のプロジェクターの調子が悪く、それを直してくれということだった。来客者はトヨタ出身で当時はTFS(トヨタファイナンシャルサービス)の代表取締役社長だった犬塚力だった。犬塚は、何も映っていないスライドの前に立って、身振り手振りを混じえながら熱弁をふるっていた。
鶴田の努力でプロジェクターは復活。犬塚とそのメンバーたちは、水を得た魚のように、プレゼンに熱を込めた。鶴田はプロジェクター復旧の功績により、プレゼンの陪席が許された。その内容は、米国でのフィンテックの最新事情をはじめ、クラウドファンディングやP2Pレンディングといったインターネットを使い、個人が銀行などの金融機関を通さずに資金を調達する新しい仕組み、クレジット業界は今後こうなるといった話であった。つまり、インターネット技術と金融が融合する時代がやってきて、米国では次々と新しいサービスが生まれているという話である。
あの、他人の話を黙って聞いているのが大の苦手で、だいたい5分もしたら自分も喋り始める友山がこの時は、じっと黙ってその話を聞いていた。この姿を見て、新米秘書の鶴田はとても驚いた。
この時、友山の頭の中には、豊田とともにその到来を予見し、長年思い描いていた「インターネットと自動車事業が融合する時代」の姿があった。犬塚らの話を聞きながら、「その時代がやってきたとき、トヨタはいったいどんなサービスを生み出していけばいいのだろうか?」ときっと考えていたに違いない。
そして、プレゼンの最後は「いま米国ではモビリティサービスという言葉が世の中に出てきました。ウーバーのようなスタートアップ企業が台頭。タクシーでもバスでもない、その間をとったような業界が生まれつつあります」とライドシェアという新しいビジネスの話だった。
TFSからのプレゼンは約1時間あまり続いた。その間、じっと黙って話を聞いていた友山が一言、つぶやいた。「面白い」。
そこで友山は鶴田に「すぐに米国に行って、TMNAのザックやネッド、サンディたちにこの話をしてくれないか」と依頼した。そして、10月中旬、鶴田はTFSのメンバーも連れて渡米。米国にいた中島雅弘と合流。一緒に、米国のフィンテック企業やゲットアラウンド(Getaround)などのカーシェアの会社を見学して回った。
ザックたちに会う前日の夜、TFSはプレゼン資料を用意していた。しかし、その資料は日本語の資料だった。鶴田自身、帰国子女であり英語は堪能だったが、TFSが友山にプレゼンした資料に、友山の意図まで織り込んだ資料を、しかも英語で作成するのはかなり難儀だった。
しかし、人間追い詰められると知恵が出る。鶴田はその時間だと、日本はちょうど朝になることに気づき、日本のオフィスにいる同僚に連絡し、英語が堪能で手の空いているメンバーを召集し、手元に持っていた日本語の資料を送って、「お前はこの5ページ」「君はこの部分の8ページ」と各自に手分けして英訳してもらい、大急ぎで英語の資料を作成した。それはまさに、トヨタコネクティッドの伝統のお家芸「知恵と汗と根性、そして人海戦術。最後は大部屋」、そのものであった。その才が認められて、この日、鶴田は友山の秘書兼、このプロジェクトの若きリーダーとなった。
次の日の朝一でザックたちTMNAのメンバーへのプレゼンが始まった。そこにはネッドやサンディたちも参加していた。テーマは「フィンテックやモビリティサービスがこれから、きっとこうなる」という内容だった。「いまはこうなっているけど、今後はこんな風に変わり、広がっていくのではないだろうか?」と必死になって、英語でプレゼンをした。最初は100%英訳されていたスライドの資料は途中からだんだん怪しくなり、最後の方はページのタイトルだけが英語で残りの部分は日本語のままだった。鶴田はそんな逆境にもめげず、最後はもう手八丁口八丁で説明を続けた。
そんな鶴田の必死さが米国人たちにも伝わったのか?内容が良かったのかは定かではないが、プレゼンは大ウケだった。
モビリティ・サービス・プラットフォームの計。諸葛亮孔明が登場
アメリカからの帰国後、鶴田は友山にそのミーティングの結果を報告した。12月の初旬のことであった。彼らの反応は友山の思った通りだった。この時、友山の頭に浮かんだ構想こそ、のちに「MSPF(モビリティ・サービス・プラットフォーム)」と呼ばれることになる、トヨタのコネクティッド戦略の第三の矢のベースとなるものであった。
クルマがコネクティッドカーになるとそれはスマートフォンが走っているようなもので、そこからの情報をTSCが吸い上げる。そして、トヨタコネクティッドがみんなで使える共通基盤(プラットフォーム)のようなものを作って提供する。そこではTSCに吸い上げたデータを活用して、カーシェアやライドシェアみたいな、いろいろなサービスが生まれる。友山は、そんな図を頭に描いていた。そして、いままではクルマを生産して販売していただけだったが、今後は、クルマから上がってくるデータがさまざまなサービスや商品を生み出す。そうしたことができるのがトヨタメディアサービスだ。それに必要なプラットフォームを構築しなければならない、友山はそう確信していた。この友山の構想はのちのMSPF(モビリティ・サービス・プラットフォーム)へとつながっていったのであった。友山がこの構想をまとめる上で、貢献したのが鶴田であった。
第4章で紹介した中国の古典『三国志演義』には諸葛亮孔明という有名な軍師が登場する。孔明は「天下三分の計」というのを劉備に進言したと伝わっているが、まさに、この時、鶴田は友山の「モビリティ・サービス・プラットフォームの計」の策定をサポートした軍師であった。栄の居酒屋で友山と「桃園の誓い」をたて契りを結んだザックやネッド、サンディが関羽や張飛であれば、鶴田は軍師・諸葛亮孔明ともいえる活躍をした。
米国ウーバー本社にアポを取ってくれ!
そして、友山は、早速、このプロジェクトを推進していく。まずはいろいろとトヨタグループの中に散らばっているモビリティサービスのネタや情報を収集し、情報交換や意見交換ができる場を作ろうという話になり、委員会が作られた。そのミーティングが2016年2月5日に開催された。鶴田はその取りまとめのリーダー役を果たした。
無事、委員会が終わり、一息ついていたその時、突然、鶴田に友山から電話が入った。夜中の12時頃である。実は友山は、グローバルなライドシェアカンパニーとは、いずれ提携しなければならないと考え、豊田に相談していた。豊田は、提携するならまず一番大きなところから当たって見ろ、と友山に指示していたのだ。その指令を鶴田に伝える電話だった。「一番大手のウーバーとやりたい。だから、そのツテを作るように」。友山からの電話はシンプルだが非常にハードルが高い要求だった。
そして、翌朝、鶴田はその指示内容を正確に理解する。その日からウーバーのツテ探し大作戦が始まった。昔からこうした計略ごとは軍師の大事な任務だ。そして、その日のお昼過ぎにはウーバーの日本法人、ウーバージャパンの当時社長だった高橋正巳氏とフェイスブックでつながった。
「フェイスブックでつないでくれた人たちが、みんな高橋社長の兄貴分のような人だったので、高橋さんも応じてくれました」と鶴田は語る。早速、電話して2日後の週明けの月曜日のアポを取り付け、鶴田は恵比寿にあったウーバージャパンを訪問する。そして、今度は米国の本社のアポを取ってくれと依頼する。そして、次の週には鶴田はTFS犬塚社長とともにサンフランシスコのウーバー本社を訪問した。そして、その翌週には今度はウーバー本社のアジア部門のヘッドなど幹部たちがサンフランシスコから名古屋にやってきて、友山と面談した。なんたる、スピード感。
こうして、話はトントン拍子で進み、3ヶ月後の5月25日にはウーバーとトヨタ、そしてTFSが協業していくパートナーシップに調印したことが発表された。そして、TFSは未来創生ファンドとともにウーバーに対してフレンドリーシップ・インベストメントのような戦略的出資を実行した。また、ウーバードライバー希望者への柔軟なリース契約を遂行する「フレックスリースプロジェクト」もスタートした。
また、この発表の2〜3週間ほど前に、シンガポールに本社があり東南アジアでウーバーと同じライドシェアを展開しているGrabが友山を訪ねてやってきた。この時期、ウーバーとGrabは東南アジアの各国でバチバチ火花を飛ばすライバル関係にあった。さあ、大変となりそうだったが、それがまったく不思議なくらい波風が立たなかった。もちろん、友山たちの繊細な配慮もあったのだが、やはりプラットフォームのビジネスというのはライバルとも手をつなぎ、作り上げていくビジネスであることを印象づけた。この後、両社とトヨタはそれぞれ提携契約を締結。強い絆で結ばれた関係となって、モビリティサービスを推進するのであるが、それについては、別の項で改めてご紹介するとして、ここではいったん、諸葛亮孔明が登場したこのお話は終了させていただく。ちなみに、トヨタのコネクティッド戦略が発表された2016年11月1日。鶴田は友山が壇上でプレゼンしていた間、その脇でパイプ椅子に腰掛け、ややこしい質問への対応要員として控えていたのであった。