第4章 暴風雨の中、新たなスタート
クラウドへの移行
「いまのトヨタコネクティッドにあって、昔のガズーメディアサービス、デジタルメディアサービスの時代になかったものは何か?」。この問いに対して、藤原は即座にクラウドだと答える。開発者にとってクラウドへの移行はエポックであった。クラウドによって開発や展開のスピードが一気に早くなり、効率的になった。しかし、この時代、トヨタをはじめ日本の大手企業は一様にクラウド導入をためらっていた。メリットは十分理解した上で、自社の基幹システムや重要なデータベースを米国のサーバーに置くことに強烈な抵抗があったのだ。そうした中、2011年4月にトヨタは米国マイクロソフトと5月に米国セールスフォースと提携を発表。クラウドへの移行を開始した。
もはやオンプレミスでは限界だ!
オンプレミスとは「自社の中で情報システムを保有し、自社内の設備によって運用すること」である。従来のシステム開発は基本的にオンプレミスでおこなわれており、この用語はクラウドサービスの登場によって、その対比として生まれた言葉である。これまでGAZOOやG-BOOK、e-CRBのシステム開発はすべてオンプレミスであった。
G-BOOKの場合は基本的にセンターとユーザー(クルマ、PC、スマートフォンなど)をつなぐだけでよかった。しかし、TSCの場合はクルマ(PHVやEV)だけでなく、電力会社、住宅(スマートホーム)、充電設備などつながる対象が一気に増える。そして、前述したようにTSC(トヨタスマートセンター)はそれらをトータルで管理し、最適化を図る電力マネジメントを担うセンターである。だからやりとりする情報や処理するデータ量がG-BOOKとは比べ物にならないくらいの量になる。そのためにはたくさんのサーバーを用意し、またニーズに合わせて拡張していくことが必要になってくる。自前でこれを構築するとなると膨大なコストがかかる。さらにTSCには、2012年に発売が予定されていたプリウスPHVのグローバル展開に合わせて、TSCもグローバルに展開していこうという構想だった。そうなると、各国でサーバーを立て、日本と同じようなセンターを世界各国に作っていく必要がある。
「TSCをやるには、オンプレミスでは無理だ。クラウド化が必要だ。クラウドプロバイダーと提携して、速やかにクラウドに移行したい」と友山は永井に指示した。永井はすぐにその意図を理解できた。なぜなら、永井には06年から09年までの約4年をかけて苦労の末、米国でトヨタ独自のテレマティクス「Safety Connect」と「Lexus Enform」を立ち上げた経験があった。その時、「今後、これと同じことをコストと手間をかけて、ヨーロッパや豪州、タイでもやるのだろうか? 同じ時期に立ち上がった中国と米国はそれなりに大きな市場なのでコストをかけてオンプレミスでやってもペイできるかもしれないけど、今後、もっと小さな市場で同じことができるのだろうか?」と問題意識を持ち、「これはもうクラウドにしたほうがいい」という考えに至っていた。「国ごとに異なる部分は除いて、共通の部分は1つにまとめてクラウドにおいたほうがいい。コストも低減できるし、データ量に応じてフレキシブルな拡張性を持つことができる」と考えていた。だから、当然、グローバル展開を予定しているTSCでもクラウドが必要だとすぐに理解できたわけだ。
そして2000年代の後半にG-BOOKの開発や展開に関連して、トヨタは次々とサーバーを増設していた。日進に作ったグローバルデータセンターでは手狭になり、2007年にトヨタ本社の事務4号館に第2グローバルデータセンターを構築していた。サーバーが増えればそのサーバーの設置コストがかかる上に、それを保守・管理する人員も必要になる。その結果、保守・管理を担当するトヨタメディアサービスでは社員の約半数がサーバーの保守・管理をする人員になっていた。
これは我々の本来の姿ではない。もっと戦略の立案や実行、そのためのシステム開発や展開などコア業務に集中する体制に戻さなければいけない。トヨタメディアサービスにとってもクラウドへの移行はもはや必然のテーマだった。
クラウドのフロントランナーと提携したい
永井は友山の指示に従い、クラウドプロバイダーの選定をおこなった。友山の要望は「提携するならフロントランナーと組みたい。それ以外とやるのであれば、オンプレミスでやったほうがマシだ」だった。この時点で国内のクラウドプロバイダーは候補から消えた。グーグル、アマゾン、マイクロソフトなど基幹システムを預けられるパブリック・クラウドプロバイダーが候補に残った。そしてシステムとの親和性を考えるとマイクロソフトがいいということになった。GAZOOもG-BOOK、e-CRBもこれまで作ってきたシステムはすべてWindowsで動いていたからである。そして、もう1社と提携交渉をしたい。できれば、その1社はフットワークが軽く、周辺のアプリ開発やSNSの活用が得意なクラウドプロバイダーがいい。ということでセールスフォースとも交渉することになった。永井はまず日本国内のマイクロソフトとセールスフォースを訪問し、交渉をスタートする。2009年の10月頃のことであった。
そして、12月のとある日、バンコクの中島雅弘に友山から電話が入る。その用件は「今夜、帰国せよ」という指示だった。中島は何事なのかよくわからなかったが、電話を切って数時間後にはバンコク・スワンナプーム国際空港に行き、その日の深夜便で帰国。翌朝、名古屋のe-TOYOTA部のオフィスに出社した。そこで友山から「明後日、セールスフォースのマーク・ベニオフCEOがアメリカからやってくる。お前はその会談の場でTSCのプレゼンを英語でやれ」という指示を伝えられた。
さすがフットワークの軽いセールスフォースである。トヨタから提携の打診が来ていることを聞いて、CEO自ら、サンフランシスコから名古屋までやってくるという。なるほどそれで合点がいった。中島は米国での生活が長く、英語が堪能だったので、マークCEOへの英語のプレゼン要員としてバンコクから緊急召集されたのだ。重要なミーティングになるので外部の通訳には任せられないと友山が判断したのだろう。もしかしたら、マークCEOのフットワークの軽さへの対抗意識から「そっちがサンフランシスコから来るのだったら、うちはバンコクからプレゼンターを招集した」と、トヨタもフットワークでは負けてないところを示したかったのかもしれない。いずれにしても、中島にはなんともご苦労なことであった。しかも、当時、中島はタイのTMTにe-CRBのコーディネーターとして出向しバンコクに駐在していたので、TSCのこともクラウドのこともまったく知らなかった。中島は藤原からTSCやクラウドについて集中レクチャーを受け、翌々日のプレゼンに備えた。
プレゼンは無事終わった。そして会談の後、友山から「お前がプレゼンしたのだから、お前が最後までやるしかない」といわれる。こうして、いつものことながら、唐突な上にわけのわからない理屈で、中島はクラウド企業との提携プロジェクトに巻き込まれることになった。中島はタイでの任期1年延長が決まったばかりだったが、大急ぎで引き継ぎをおこない、帰任日を早めて翌年1月頭に日本に帰国。約4年ぶりにトヨタメディアサービスに復帰した。
シアトルとハワイでトップ会談
2011年1月10日。友山と永井、藤原たちはシアトルにいた。もちろん、タイから帰任したばかりの中島もいた。そこにニューヨークから豊田が合流した。豊田は直前まで品質問題に関係したヒアリングを受けていたため、かなり疲れていた。友山たちの顔を見るとちょっと元気が出たようだが、いつもと比べると笑顔は少なかった。その日の夜の会食でも豊田は固い表情をして珍しく無口だった。品質問題のヒアリングはかなりタフだった。極度の緊張から精神的にも相当、辛かったようだ。「僕が踏ん張らないとね。トヨタの30万人の従業員、そして販売店やサプライヤーさんたちの生活がかかってる」。豊田はボソッと呟いた。こんな豊田を見るのは初めてだった。みんな神妙な顔をして豊田の話に聞き入り、その夜はしんみりと飲んでいた。
2011年1月12日、シアトルのマイクロソフト本社に当時のCEOを訪問する。この日、シアトルは雪が降っていた。ホテルを一歩出ると、道路も駐車中のクルマも街中が冷え切っていた。とても寒い朝だった。そんな日の午前中にマイクロソフトのCEOと豊田とのトップ会談がおこなわれた。
会談の目的は「トヨタとして初めてクラウドを採用する。マイクロソフトのクラウドを使って、TSCを構築したい。トヨタが未来に向かって大きく前に進むための提携の申し入れ」である。トヨタとマイクロソフトというそれぞれの業界を代表するビックカンパニー同士の提携。しかも単なる業務提携だけでなく、資本提携にまで踏み込んだ内容だ。実現すれば世界的に注目されるのは間違いない。
会談の最初は双方がかなり緊張していて、部屋の中はピンと張りつめた空気がたち込めていた。会談が進むにつれて、はじめは固い表情だった豊田のモチベーション・エンジンが徐々にヒートアップしていき、TSCにかける思いを熱く語った。会談時間は2時間におよんだ。中島がTSC構想について英語でプレゼンをして、伊藤が作った『トヨタスマートセンター20XX年〜君がいてよかった〜』の動画を披露した。ひと通り、トヨタ側からのプレゼンテーションが終わったタイミングで、それまで、じっとプレゼンを聞き入っていたCEOが口を開いた。
「ミスター豊田。私はあなたに一つお聞きしたい。あなたはマイクロソフトの何に魅力を感じていますか?」。CEOの質問の意図を普通に汲み取ると彼が期待していた答えは、おそらくクラウドのAzureとかオフィスといった商品に関するコメントやマイクロソフトの技術力とかヒューマンリソース、クラウドのフロントランナーとしての知見や実績…といったそんな回答だったと思われる。しかし、その問いに対する豊田の回答は実に意外なものだった。豊田はしばらく下を向いてじっくり考え、そして考えに考え抜いて、顔を上げ、CEOの目をじっと見つめて、こういった。
「We would like to make ever better cars.(もっと、いいクルマを作りたい)」。
この瞬間、部屋の空気がガラッと変わった。CEOはあまりにも予想外の回答にあっけにとられ、ぽっかりと口を開け、あぜんとした。しかし、すぐにとりなし、にっこり笑って「やりましょう。私たちはトヨタのプロポーザルに対してすべてポジティブです」と語った。中島はその時の様子を「あの瞬間に歴史が動いた。まさに、その時、歴史が動いたんです。豊田さんのひと言で部屋にいた全員の心の中の緊張のタガみたいなものが一瞬で吹っ飛んで、なんか胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。きっとみんな同じ気持ちだったと思います。トヨタとマイクロソフトの両社の間にあった見えない壁が一瞬にして崩壊した。大企業の両社が手を組んだ瞬間でした。形式的、儀礼的な提携締結とはまったく違う、心が通い合い、目指していくベクトルが一致した本当の意味でのパートナーシップ、強固な協調協力体制が生まれた。その瞬間を僕は目撃しました。その場に立ち会えた。もう、すごく興奮しました」と振り返る。
全員お揃いの水着とTシャツ姿で提携交渉に臨む
マイクロソフトとのトップ会談を終えて、一行は豊田のプライベートジェットに乗り込み、その日のうちに次のセールスフォースとの会談場所であるハワイに移動する。同社のマークCEOとは翌日、ハワイにある彼の自宅で会談する予定になっていた。
ハワイに到着したのは夜7時ごろだった。雪が降りしきるシアトルから一転して、そこは常夏の楽園ハワイ。誰だってテンションが上がる。ましてや一行はつい先ほど、シアトルで大仕事をやり遂げたばかりである。これでテンションが上がらないほうがおかしい。一行は大いに弾けた。
トヨタが所有するコーポレートハウスに到着すると、シアトルから電話で頼んでおいたお揃いの水着とTシャツが用意されていた。水着に着替えた一行は、夜のプールサイドで、子供のようにはしゃいだ。ここで改めて、「TSCをやりきるぞ!」と全員で誓いを新たにする。豊田もシアトルで合流した前夜の豊田とは別人のように元気を取り戻していた。この日の夜は誰よりもノリノリで、率先して弾けていた。そして宴の最後に豊田が「交渉ごとは空気を制しなければならない。明日のマークとの会談は全員、この水着とTシャツで行くぞ」といい出した。
セールスフォースの創業は1999年。まだスタートアップ期のイケイケの雰囲気が社内に残る西海岸の自由闊達な社風の会社だった。CEOのマーク・ベニオフはアロハシャツがトレードマーク。公の場でもいつもアロハシャツやポロシャツ姿で出席していた。明日の会談もきっとアロハシャツ姿に違いない。アロハに、このお揃いの水着にTシャツ姿で対抗しようというのだ。翌朝、集合場所のロビーに行くと豊田は本当に水着とTシャツ姿だった。「ヤベェー、豊田さん、本当に水着で行くつもりだ」。全員、部屋に戻り、水着とTシャツに着替えて、再集合。クルマに乗り込んでマークCEOの自宅を訪問した。
マークCEOは自宅の玄関に出て、一行を出迎えた。そしてクルマから降りた豊田たちの姿を見たとき、マークは大笑いして「もう降参です」という顔をしていた。事実上、この時、提携交渉は完結していた。答えはもちろんイエスであった。
一行は家の中に招き入れられ、中島はモニターを使ってTSCや提携内容について一生懸命プレゼンした。しかし、もはや、誰もプレゼンを聞いていなかった。マークは豊田に、iPadに入った、当時最先端のホームコントロールシステムと自社のコア事業となりつつあった社内SNSの取り組みをずっと説明していた。一応、ひと通りプレゼンを終えて中島は「マーク、いまのプレゼン、聞いていましたか?」と問いかけたところ、マークは「もう聞く必要はなかったよ。だって、我々は全部イエスなんだから」と笑った。前日と打って変わって、なんとも緊張感のかけらもない、よくいえば自由でのびのびとした和やかな雰囲気の中での提携交渉、トップ会談だった。なにせ当事者の御両人はずっとiPadに夢中だった。中島はもう拍子抜けもいいところで、ただただ笑うしかなかった。そもそも相手は短パンにアロハシャツ、こちらは水着にTシャツ姿なのだから、緊張感を持って真面目に交渉しろというのは無理があった。終始、笑顔が絶えないミーティングだった。
そして、豊田が夢中になっていたマークのiPadから新しいサービスが誕生する。マークは豊田たちが自宅に到着してからずっとこのフレンドリーなトップ会談をセールスフォースの社内SNSで実況中継していたのだ。この中継を見ていたセールスフォースの社員からは続々とコメントがマークのiPadに入ってきていた。社員同士が勝手につながって、この会談の話題で盛り上がっているグループもあった。「これは面白い。これをクルマでやろう!」という話になり即興でPHV向けの新しいサービスが誕生した。そのサービスは「トヨタフレンド」と名付けられた。また、豊田と友山には、提携成立を記念して、マークからサーフボードがプレゼントされた。
マイクロソフト、セールスフォースとの提携契約
トップ同士は提携合意でまとまった。あとは正式な提携締結に向けて、事務方で詳細を詰めていくだけである。これは海外関係のビジネス経験が長く、海外法務の実務経験があった永井が一手に引き受けることになった。提携発表は2011年4月に予定されていたので3月末にはMOU(合意の覚書)を締結しておかなければいけない。永井に与えられた時間は2ヶ月半であった。
トヨタとマイクロソフトという日米の大企業同士の提携である。いくらトップが合意しているとはいえ、それを具体的な契約書に落とし込む作業は容易ではない。セールスフォースもベンチャー企業とはいえ、アメリカの会社である。あの陽気で開放的な社風とは裏腹に、契約に関してはとても細かい。まして、今回のマイクロソフト、セールスフォースとの提携には、両社がトヨタメディアサービスに資本参加することも盛り込まれていた。相当、難易度の高い契約交渉であった。しかもそれを2社と同時並行でやらなければいけない。時間は全然足りなかった。
永井は毎夜、両社の交渉担当者と国際電話でミーティングをおこない、詳細を詰めていった。「トヨタとしては、ただ単にマイクロソフトのパブリック・クラウド『Azure』を使ってTSCを構築したい、合わせてG-BOOKのレガシーシステムをクラウドに移行したいというだけでなく、出来るだけそれらをエクスクルーシブな形で、カスタマイズなどの自由度をできるだけ担保しながら実現したかった。マイクロソフトにしてみれば、日本を代表する企業であるトヨタが自社のクラウドを採用することになれば、日本のみならず世界的にもセールスプロモーション効果が期待できる。最高のプロモーションになると捉えていました。ですから、そういう意味では両社の利害は一致していたのです。しかし、だからこそ、そこにいろいろな思惑が入ってきて、錯綜する。その調整は本当に大変でした」と永井は振り返る。セールスフォースにとっても同様であった。いや、むしろベンチャーのセールスフォースの方が提携のプレス効果への期待が高く、交渉に対して前のめりだった。トヨタメディアサービスへの資本参加といっても金額的には大した額ではなかったが。その対外的なプレスのインパクトは甚大である。当然ながら、セールスフォースは「もっと出資させろ」といってきた。
交渉を任されたといっても、永井に全権が委任されたわけではない。一つひとつ社内決裁が必要だった。友山からは毎日、容赦なくガンガンと要望が出てくる。豊田にも進捗報告をしないといけない。予想されていたとはいえ、これはとてもハードなミッションであった。永井は自分で考える余裕すらなくなってきた。「これはもう、とにかくやるしかない!」と自分を鼓舞し、タフな交渉と調整を続けた。
この提携プロジェクトに関してはトヨタ社内でも知っている人間はごくわずかに限定されていた。極めてレベルの高い極秘プロジェクトだった。だから、永井は周囲や社内の知り合いに相談することができなかった。永井は孤独な戦いを強いられていたのだ。
なぜこの提携交渉が極秘だったかというと、もちろん社会的にも影響力の大きい提携なのでマスコミなど外部に漏れては困るという理由もあった。しかし、1番の理由は社内でこのプロジェクトが潰されることを恐れたからである。冒頭で述べたとおり、トヨタをはじめ日本の大企業には当時、クラウドに対するアレルギーのようなものがあった。だから、ひとたび、社内のどこかの部署から「クラウドへの移行」なんて起案が上がろうものなら、たちまち組織の免疫システムが作動し、その案は徹底的に潰された。当時はそんな時代だった。だからこの提携プロジェクトは水面下で進められており、記者発表の直前の取締役会で報告し、承認を得て、すぐに発表された。免疫システムが作動するタイミングを与えなかったのだ。
震災下の提携発表、日本を元気に
永井がこのハードでややこしい提携交渉をなぜ一人でここまで頑張れたかというと、その背景には品質問題で喘ぎもがいていた当時のトヨタ社内の状況があった。前項でも紹介したように、2010年3月5日に「オールトヨタ緊急ミーティング」を開催、翌月4月に一人ひとりが大事にすべきことをまとめた『私たちの心構え』のリーフレットが全社員に配布された。そこには「お客様第一」「チャレンジ」「改善」「現地現物」「質実剛健」「チームワーク」「当事者意識」「謙虚・感謝」「素直・正直」「愛社精神」の10項目の心構えが記載されていた。並行してグローバル品質特別委員会が立ち上がり、豊田が提唱した「もっといいクルマをつくろうよ」のスローガンの下、世界中の現場でトヨタの信頼回復に向け、社員一人ひとりが懸命に努力していた。2011年になってもその状況はなんら変わっていなかった。
「私は30数年、トヨタで働きましたけど、この時だけは『本当に会社が潰れるかもしれない』という危機感を覚えていました。その危機感が全社で共有され、一人ひとりが『なんとかしないといけない』『ここから這い上がっていかなければいけない』という緊張感や会社としての一体感がありました。みんながみんな、とにかく自分の業務を必死でやっているという状況でした。そんな中、私に任されたミッションはマイクロソフト、セールスフォースとの提携交渉をまとめることでした。だから、とにかくそれに集中して頑張りました。みんなが頑張っているから、自分も頑張れた。ただそれだけです」と永井はいう。
そして、提携交渉が大詰めを迎えた3月11日、東日本大震災が起こった。原発事故もあって、日本中が大混乱に陥り、トヨタもサプライチェーンが寸断され工場の生産がストップした。そんな状況の中、予定どおり提携発表をするべきか否かという議論もあった。トヨタの広報部からは、震災直後の自粛ムードの中、この提携発表は控えるべき、との意見もあったが、最終的に、この提携を日本を元気にする、元気づけるものにしないといけない、という豊田の判断で、マイクロソフトとの提携は2011年4月7日。セールスフォースとの提携は5月23日に記者発表をした。世界中が驚き、この発表は「トヨタ再生」そして「日本復興」の一つのきっかけになった。
そして、6月に開催したトヨタメディアサービスの株主総会までにMOUを本契約にして、トヨタメディアサービスはマイクロソフトとセールスフォースからの出資を引き受けた。これで提携交渉プロジェクトは完了し、この後はクラウドを使ったTSC構築など開発の実務フェーズに移り、藤原たち開発者にバトンが渡された。
クルマと会話「トヨタフレンド」
なお、5月23日のセールスフォースとの提携発表では、セールスフォースが手がけるクルマのSNS「トヨタフレンド」も同時にリリースされた。トヨタフレンドは、新発売のプリウスPHVに搭載されたサービスで、クルマとオーナーが、SNSで会話するというもの。クルマから「電池残量が60%になっています。少しお腹が空いています。このままEVモードで走行するなら充電をお願いできますか?」とメッセージが送られてきたり、オーナーから「工具はどこにあるの?」とクルマに問い合わせることが出来た。ここで得たノウハウが、現在のコネクティッドサービスのエージェントに活かされている。
発表会では、このトヨタフレンドのブランドロゴが発表直前になっても決まらず、記者発表会場だったメガウェブの舞台の袖では、伊藤誠がパソコンを持ち込み、ギリギリまでロゴをデザインして、出来上がったばかりのロゴをセールスフォースの広報が受け取り、それをそのまま発表したという、いつもながらの綱渡りドラマが繰り広げられていた。伊藤はこの手のハラハラドキドキにはすっかり慣れていた。きっと読者のみなさまも、こんなエピソードを聞いても、もはや驚くことさえないと思うが…。クラウドの新しい時代を迎えても、トヨタメディアサービスのこういう一面はなんら変わらなかった。
この章の登場人物
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- 中島 雅弘(なかしま まさひろ)
- トヨタ自動車株式会社 MaaS事業部主査
元トヨタコネクティッド・ノースアメリカ Chief Operating Officer - 米国の大学を中退して、自分で会社を作り、英語学校を経営。その会社を売却後、派遣で働いていたとき友山たちと出会う。きっかけはいつも海外から来賓があると通訳やプレゼンを担当していた鶴田洋介がたまたま新婚旅行で不在だったため、急遽、米国生活が長く英語が堪能だった中島が通訳と英語でのプレゼンのピンチヒッターを務めることになった。そのプレゼンが抜群にうまかったので、友山が抜擢。その後、タイのDMAP社長、TMTのコーディネーターを2年ずつ計4年間務めたのち、日本に帰任。マイクロソフト、セールスフォースとの提携やTCの米国法人TCNAの設立、さらにはUber、Getaroundなど米国企業との提携や交渉を担当してきた。
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- 藤原 靖久(ふじわら やすひさ)
- トヨタコネクティッド専務取締役、トヨタ自動車 e-TOYOTA部主査
- 2011年5月に当時のトヨタメディアサービスへ専務取締役として出向。トヨタスマートセンターのクラウド化を開発現場で主導し、トヨタのWebサービスのデーターセンター改善にも切り込む。「安く、早く、品質よく」をモットーに、最新技術のアップデートにも余念がない。友山の「クルマがドライバーにつぶやいたらおもしろいのでないか」というコンセプトを受けて、早速TCの片岡や前平、トヨタの平松らを集めて試験研究を開始。スタートアップ企業の技術を用いて、「クルマのつぶやき」サービスとして実現した(後にトヨタフレンドに統合されることになる)。そのスピード感や巻き込み力は周囲を圧倒し、若手顔負けのエネルギーで溢れている。