第2章 テレマティクスの幕開け
お客様との接点はクルマの中にこそ創るべきだ!
「走る・曲がる・止まる」に続くクルマの第4の基本性能。それが「つながる」である。折しも、「いつでも、どこからでもネットにつながって、情報を受発信できる、ユビキタスネットワーク社会」の到来に際し、2001年の東京モーターショーでトヨタは次世代テレマティクス「G-BOOK」の構想とプロトタイプを公開した。24時間365日、クルマとドライバーの安心・安全を守るとともに、通信でつながることによる新しいドライブのスタイルや楽しさを提案。「人間とクルマと社会をつなぐ絆」がコンセプトだった。この発表から約一年後に、トヨタ初のテレマティクスサービス「G-BOOK」が世の中に登場するのだが、ガズーメディアサービスはe-Towerでは経験したことの無い苦難の日々を過ごし、いまでは当たり前となった「コネクティッドサービス」の礎を築き上げていった。
一世一代の大舞台
2002年8月28日。緑豊かな明治神宮外苑の一角、東京・元赤坂にある明治記念館の大ホールはそこだけ異様な熱気と緊張感にあふれていた。その中心にいたのは、この年の1月にGAZOO事業部から改名し、名実ともにトヨタのネット戦略を統括する部署となったe-TOYOTA部のメンバーとガズーメディアサービスのメンバーだった。
「じゃあ、映像を出してくれ!」「よしOK」「ナレーション入れて!」「はい、そこはもっとゆっくり大きな声でお願いします」…。その度に、キビキビと、かつせわしなくインカムをつけたスタッフがホールの中を右へ左へと走り回る。その中央で声を張り上げ、細かい指示を出していたのは友山だった。
この日、この場所では午後から次世代テレマティクス「G-BOOK」の記者発表会が開催される。彼らは朝からそのリハーサルをやっていたのだ。記者発表会には自動車関係の新聞、雑誌はもとより、一般紙の新聞各社やスポーツ新聞、週刊誌、経済誌、ライフスタイル誌、エンターテインメント誌、ファッション誌、ネットメディア、さらにはテレビ局各社など幅広いジャンルのメディアから取材依頼が入っていた。それはトヨタが描く未来のクルマのあり方、次世代テレマティクス「G-BOOK」への期待と関心の高さを表していた。
友山やガズーメディアサービスにとって、これほど大規模な記者発表会は初めての経験。故に、どれほど彼らが興奮し、緊張していたかご想像いただきたい。まさに「一世一代の大舞台」といっても過言ではなかった。しかも、彼らはこの記者発表会をトヨタの広報部任せにするのではなく、自分たちの手でやろうとしていたのだった。この日に向けて、どれだけ多くの人間がどれだけの時間をかけて資料作成や動画やデモ機などの制作に費やしてきたのか?その苦労のほどは察するに余りある。
いよいよ数時間後にはその本番を迎える。「デモを見て、きっと、みんなびっくりするぞ」「世間をアッといわせるようなプレゼンにしたい」「クルマの未来を描ききってみせる」。それぞれの想いを胸に全員が準備にいそしんでいた。テイク2、テイク3とリハーサルは回を重ねるたびに熱が入り、完成度が高まっていった。
そんなリハーサルの
「どうなっている!原因を探せ」「もう時間がないぞ。なんとかしろ!」。2人は携帯電話でやりとりしながら、必死で復旧に尽力するが、何度やってもうまくいかない。「どこかが妨害電波を出しているのでは?」、そんな冗談も飛び交っていた。しかし、当の2人はもう必死。そんな冗談の相手をする暇はなかった。
すべては安心と安全のために
定刻通り、記者発表会がスタート。会場は満席。最後列に設けられたひな壇には、NHKをはじめ民放キー局各社のテレビカメラがずらりと並ぶ。
舞台では、ニュースや渋滞情報などの表示や読み上げ、万一、車両盗難にあった時にクルマの現在位置を検索して見つけてくれる「マイカーサーチ」、オペレーターに電話してナビの目的地設定やスポット検索が依頼できる「オペレーターサービス」、さらにはクルマの中で楽しむカラオケ「AUTO LIVE」、位置情報を使った「ここだよメモリー」や「フレンドサーチ」のようなさまざまなコンテンツが次々と実演・披露された。会場の記者たちは、じっとそれに見入り、引き込まれていった。
おなじみのe-Towerも登場。気に入った音楽をe-TowerからSDカードにダウンロードし、それをクルマのナビで再生する実演もおこなわれた。
午前中に何度テストしてもダメだった、クルマから自宅のエアコンを遠隔操作するデモも、本番では奇跡的にうまくいった。
プレゼンの最中、会場からは「おー」という歓声が何度も上がった。記者たちは当時は最先端の用語だった、「ユビキタス・ネットワーク社会」について本で読んだり、話に聞いたことはあっても、実際に自分の目で見るのは初めて。だからこそ、目の前で繰り広げられたデモの数々は衝撃だった。それは紛れもなく、「未来のクルマのカタチ」だった。
そんな記者たちの関心はG-BOOKがトヨタのIT戦略の中でどういった位置づけになっているのか、トヨタの自動車ビジネスにどのような影響があるのか、といったことに集中する。そんな彼らの質問に対して豊田は、「日頃からG-BOOKに慣れ親しんでもらう」ことの重要性をとりわけ強調していた。これはいい換えれば、「日頃からG-BOOKを通じてトヨタとコミュニケーションしてもらう」ということである。つまり、G-BOOKの本当の狙いは、「お客様との日常的な接点をクルマの中に作ること」にあった。多種多彩なコンテンツはそのために用意されていたのだ。
GAZOOを立ち上げた時から脈々と受け継がれるお客様との接点づくりは、この最先端のテレマティクスサービスの中にもしっかりと根付いているのである。
育てるクルマの発売
さて、G-BOOKの記者発表会は大盛況の中、無事に終了した。当日の夕方のニュース番組や夜の報道番組では「未来のクルマのカタチ」として大々的に報道され、翌朝の新聞各紙でも紙面を割いて大きく取り上げられた。各種雑誌はさまざまな視点からG-BOOKの特集を組んで、これを伝えた。
そして、2ヶ月後の同年10月21日、G-BOOKを搭載した最初のクルマ「
広告のキャッチコピーは「育てるクルマ」。そのココロは「カーナビの地図データをコンビニやトヨタの販売店のキオスク端末、自分のパソコンからネットを通じてダウンロードして、自分に最適化された最新のナビに育てることができる。ニュースやレストラン検索、カラオケなどG-BOOKコンテンツを使うことで、自分仕様のクルマに育てることができる」ということ。いま改めて見直すと、ちょっといい過ぎだったようにも感じるが、当時はこの「育てるクルマ」というフレーズに多くの消費者が心を惹きつけられた。
「クルマを育てるって、どういうこと?」「ペットみたいなもの?」。通常、クルマを新車で購入しても、買った瞬間からクルマはどんどん古くなっていく。しかし、このクルマは逆に成長し、新しくなっていくという。とにかく、みんな興味津々だった。
この育てるクルマの発売から1ヶ月間(2002年10月21日から11月20日)の販売台数は、月販目標台数1500台の4倍を超える約6500台。WiLL CYPHAは、若者はもちろんファミリー層にも受けた。やはり、G-BOOK対応ナビと専用通信機DCM(Data Communication Module)が標準搭載されていたことが大きく販売に寄与したのは間違いない。
また、中には個性的なデザインやカラーリングが気に入って購入を決め、G-BOOKはおまけ程度にしか考えていなかったオーナーも少なからずいた。しかし、クルマに乗ってエンジンをかけるたびにナビ画面にG-BOOKのロゴが浮かび上がり、ついで操作画面が表示されたので、気にならない方がおかしい。「これは一体、何ができるのだろう?」「試しに使ってみよう」ということになる。こうしてクルマの中に、日常的なお客様との接点が拡大していったのである。
ユーザーの要望を改善に生かす
しかし、いまから見ればWiLL CYPHAに搭載された初代G-BOOKはお世辞にもよくできたシステムとはいえなかった。実現したいことが先進的すぎて、それに技術がまだついていっていなかった。
だから、G-BOOKサポートセンターやG-BOOKコンテンツとして会員向けに開設されていた「伝言板・掲示板」(パソコンからもアクセス可能)には、会員からたくさんの質問やご意見、叱咤激励のメッセージ(一部は限りなく苦情に近いもの)が寄せられていた。
「2003年G-BOOKはこうなる。みんなの大予想」という伝言板で、会員の大予想(=改善要望)として一番話題になっていたのは「通信速度が飛躍的にアップする」だった。当時の通信機DCMの最大通信速度は144kbps。2020年現在のT-ConnectおよびG-Linkの通信速度は受信最大100Mbps、送信最大25Mbpsだから雲泥の差がある。それでも、当時の簡易携帯電話PHSは32kbps、ISDNが64kbpsだったことを考えれば、けして遅くはなかったのだが、やはり、サクサク動く感じではなく、ユーザーはじっと画面が変わるのを待っていた。
次に多い予想(要望)は「走行中でも利用できるコンテンツが拡大」。走行中は画面のボタンがタッチできないため、ほとんど何もできなかった。その対策として、音声コマンドが用意されていたが、まだまだ音声認識の精度が低くユーザーは苦労していた。「低い声でコマンドを発話すると認識されやすい」「森進一のモノマネでやったらうまくいった!」そんな情報が伝言板・掲示板で飛び交い、ユーザーは自分たちでなんとかG-BOOKを使いこなそうと試行錯誤していた。
そのほかにも数々の大予測が寄せられていたが、開発側もこうした要望を積極的に収集し、改善を図り、システムをバージョンアップしていった。例えば、各コンテンツのトップ画面に大きな操作ボタンを配置し、走行中も操作できるようにした。また、よく使うコンテンツを走行中操作できるボタンとして自分で登録して利用できる「MYリクエスト」が追加された。音声コマンドの音声認識も徐々に改善され、利用できるコマンドの数も増えた。さらに、ボタン操作手順だけをまとめたアンチョコのような『すぐわかる・すぐ使えるG-BOOKクイックマニュアル』を制作して会員に配布した。
こうした素早い対応に、会員からは喝采が巻き起こる。だからこそ「G-BOOKの不満」ではなくポジティブな「大予測」という企画が成り立ったのだ。
みんなで育てるクルマ
そして、「至らないことが多いから、逆にいとおしい。出来の悪い子供の方が可愛く思えてくる」「一緒に成長していくのが楽しみ」と本来、クレームになることが逆に激励になっていく。「育てるクルマ」ならではの奇妙な現象が起きていた。
また、トヨタやガズーメディアサービスの開発側、サービス提供側の迅速な動きに呼応して、会員サイドでもさまざまな自主的な活動が湧き上がってきた。例えば、インターネット上にユーザーが主宰する「育てるナカマ」というサイトが立ち上がり、このサイトにG-BOOK会員が続々と参加、操作の裏技の公開など会員同士の情報交換がおこなわれた。また、WiLL CYPHAのコミックを自主制作する人が出現。手作りの缶バッチやマグカップが制作され会員間で流通していた。全国各地でオフ会(オフラインミーティングのこと。ネットで知り合った仲間が集まって実施するリアルイベント)が頻繁に開催された。もちろん、オフ会の開催はG-BOOKの「フレンドサーチ」や「ここだよメモリー」、「伝言板・掲示板」が大活躍。まさに「つながるクルマ」の本領発揮であった。
自動車のオフ会というのはランドクルーザーなどトヨタのいくつかのクルマでも開催されていたものの、発売からわずか数ヶ月でこれほど多くのオフ会が各地で立ち上がり、関連グッズも制作されるのは前例がない。それはどれだけ、このクルマが愛されていたかという証でもあった。そして、そうした会員とクルマ、会員と会員、そしてトヨタ、ガズーメディアサービスとの絆を取り持っていたのがG-BOOKであった。
いつしか「育てるクルマ」は「みんなで育てるクルマ」となり、クルマを作るトヨタ、サービスを提供するガズーメディアサービスが会員(ユーザー)と一緒になって育てる。いままでにないお客様との強い接点、固い絆が、この時、クルマの中に構築されたのであった。
この章の登場人物
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- 豊田 章男(とよだ あきお)
- トヨタ自動車代表取締役社長、一般社団法人日本自動車工業会会長。
ガズーメディアサービス(現在のトヨタコネクティッド)初代社長 - 「なぜ、トヨタの工場ではジャストインタイムで作った車両が、販売店のヤードで何日も滞留するのか」、という疑問をきっかけにトヨタ自動車の販売店へのトヨタ生産方式を導入した第一人者。新車の物流改善から始まり、1996年に業務改善支援室を立ち上げ。友山や藤原らと共に顧客満足を目指す活動を牽引。その活動は初の中古車画像システムをもじりGAZOOと名付けられ、改革の旗印となった。
2000年にガズーメディアサービスを立ち上げると、コンビニとの接点拡大を狙ったe-Tower事業を推進。米国のNUMMI副社長時代にG-BOOKのモデルとなる米国マイクロソフト社のe-BOOKをみつけるとその新しさと可能性を感じ友山や藤原に紹介。今のつながるクルマの先駆けとなるG-BOOK開発のきっかけを作った。「安心・安全」と「必ずつながること」に誰よりもこだわり続け、G-BOOKに専用通信機DCMが採用されたのは豊田の強力な後押しがあればこそだった。WiLL CYPHAが発売された時は自身のシンボルカラーである情熱的な赤色「アカ」を購入。
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- 友山 茂樹(ともやま しげき)
- トヨタ自動車役員・Executive Fellow、トヨタコネクティッド元代表取締役社長
- 豊田の販売改善活動を立ち上げ当初から支える、GAZOOの司令塔的存在。生産調査室でTPSを学び、豊田とともに現地現物の販売店改善活動に従事した。副社長としてガズーメディアサービスを立ち上げ後、トヨタのGAZOO事業部とトヨタコネクティッドの二足の草鞋を履きながらIT事業の企画から開発、運用まで一貫して責任を負った。e-Tower事業立ち上げの陣頭指揮をとる激務の日々の傍で、次の一手としてG-BOOKプロジェクトを着々と準備していた。その類まれなる発想力と予見力は、周囲を帰従させる力を持ち、「虹をかける仲間達」の言葉どおり、多くの虹を架けては仲間と共に実現に向け疾走し続けてきた。
無類のクルマ好き。「クルマは相棒」がモットー。G-BOOKの開発が始まった頃はウインダムからアリストのTT欧州仕様に乗り換え。大金をかけてエンジンのチューニングや足回りの強化などを施していた。現在の愛車はスープラ。家庭用に購入したWiLL CYPHAはCMなどでも使われた黄色「キィ」を選択。
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- 藤原 靖久(ふじわら やすひさ)
- トヨタコネクティッド専務取締役、トヨタ自動車e-TOYOTA部主査
- GAZOOの改善活動をITで推進し、中古車販売システムからG-BOOK、e-CRB、現在のモビリティサービスまで開発の最前線を行く切り込み隊長。日経クロスメディアでは、中古車販売を「電子そろばん」で変えた男、として紹介されるほどIT販売改善といえば藤原として知られる。足りないものは自分でつくるが口ぐせで、今でもはんだこてを手に専務席で熱心にモノづくりをする様子が目撃されている。
1987年、水泳選手としてトヨタ自動車へ入社後、本社工場の工務部で生まれて初めてコンピューターの研修を受け、その可能性に魅了される。その才能を開花させるやいなや友山のいる業務改善支援室にお声がかかり、中古車物流を改善する中古車販売システム開発に着手。販売店に好評を博すとすぐに改良版を開発するという「改善体質」を体現する人物。G-BOOKでは、開発責任者として開発チームを牽引し、シンプルでコンパクト、そして使い勝手の良いプラットフォーム(共通基盤)を目指して開発を進めた。WiLL CYPHAの色は技術者らしくクールな青色「アオ」を選択。周りからはポリバケツの色と揶揄されながら、本人は「これはドラえもん・カラーだ」と気に入っていた。
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- 井谷 周一(いたに しゅういち)
- トヨタコネクティッド ソリューション開発部 TSLシステム開発室 室長
- ガズーメディアサービス(GMS)初期メンバーである、「オリジナル29」の一人。GAZOO時代から藤原の下で販売店の物流システム開発に携わり、1999年のGAZOO端末のシステム開発とウェブ開発を任され、藤原とともに北海道と名古屋を往復しながら成功に導いた裏の立役者。窮地でも諦めないバイタリティが買われ、GMSの初期メンバーとして参画。「新しいことにチャレンジし続けられる」ことがTCの魅力と語る、創業時から現在までTCに在籍する数少ないメンバー。
2000年のGAZOOデータセンター構築から、2001年のtoyota.jpサーバー移設と運用保守、2002年のG-BOOKのサーバーやコンタクトセンター構築などインフラ構築の要として携わったプロジェクトは数知れず。無謀とも思える仕様書でも、協力会社と何度も試作品を作り藤原にやり直しを命じられながらも必ず形にする粘り強さを持つ。寡黙な見た目とは裏腹に初対面の人にも「ちゃん」付けで呼ぶ、大雑把だけど頼れるプロジェクトリーダー。