第2章 テレマティクスの幕開け
G-BOOKの誕生
先の話では、G-BOOKが記者発表されたときの話を紹介した。本項では、そのG-BOOKがどのように誕生したのか、その事の起こりについてお話しする。その話は、2000年まで遡る。それはガズーメディアサービスが設立される少し前の話である。トヨタの業務改善支援室が国内業務部から独立して、GAZOO事業部が設立され、豊田が米国のNUUMIの出向からトヨタに帰任した。ちょうど、その頃にG-BOOKの企画が誕生する。
クルマの中にGAZOO(お客様との接点)を作る
G-BOOKの発想の原点になったのは豊田がアメリカのマイクロソフトから手に入れた『e-BOOK』というタイトルの動画だった。ドライブに出かけたアメリカ人ファミリーが車内で『e-BOOK』と名付けられたタブレット端末を操作して、車内で映画をみたり音楽を聴いたり、レストランの情報やスポーツの結果を情報検索する。英語で作成されたショートストーリーの動画だった。そこに描かれていたクルマの中でのシーンは英語がわからなくてもすぐに理解できた。
この動画を初めて観た時、友山の頭にはすぐに米国のドラマ『ナイトライダー』が浮かんだ。『ナイトライダー』は1982年から米国で放送開始された特撮テレビドラマ。主人公のマイケル・ナイトが、人間の言葉を話し、人格を有するAIを搭載し、最高時速520キロで自動走行するドリームカー「ナイト2000」とともにさまざまな事件を解決するカーアクションドラマだ。「ナイト2000」をコントロールしているAIのK・I・T・T(キット)は、自動運転はもとより、抜群のデータ収集・分析能力をもち、おせっかい過ぎるほど、何かにつけてマイケルの世話を焼く。友山はこのやり取りが大好きで、トヨタの若手社員だった時、このドラマを観ては将来、こんな人間と会話ができる相棒のようなクルマを開発してみたいと憧れたものだった。
豊田がこの動画を見せたのはもちろん友山を喜ばすためではない。これをヒントにクルマの中にお客様との接点が作れると考えたからである。
そのメッセージを受け止めた友山は、「ガズーメディアサービスがやらなくてはいけない事はまさにこれだ!顧客との接点はコンビニではなくクルマの中に作るべきだ!」と、これまでとはまったく違う新たなビジネス領域を創るため、一気に自分のイメ―ジを固め始めるのであった。
そこに大きく貢献したのが、現在の常務取締役である伊藤誠だ。豊田からの動画を見せられて直ぐに、友山は伊藤を会議室へ呼び出し、動画をみせた。
「どうだ。面白いだろう?いつも肌身離さず持っていられる『GAZOO』を作りたいと思っている。コンセプトはまさに、『BOOK』(知恵袋)なんだ!」
伊藤はそのコンセプトにとても感銘した。これまでは、コンビニとか、クルマではない場所でお客様とつながっていたのが、その接点がこれからはクルマの中に持てること。さらにそれを持ち運ぶことで、いつでもどこでもお客様とつながることが出来ることに、ワクワクしながら、友山の説明に聞き入っていた。しかし夢を語るだけで終わらない。伊藤の空想を一気に現実に引き戻す言葉が友山から発せられた。
「お前もこれを実現させたいだろう?ならば、いまから俺がいうことを企画書に起こせ」と、一言声を発すると同時に、A3コピー用紙の裏に自分で描いたアイデアやキーワード、サービスの概要案を書きあげた。「これを3日でまとめ直して、俺に見せろ」。伊藤はそのメモ書きを受け取り、仲間と一緒に3日間徹夜して、何とか企画書をまとめ上げた。
この企画書の最大のポイントは、取り外しが可能なマルチメディア端末であり、クルマに設置すれば、カーナビはもちろん、インターネット接続により、ショッピングやダウンロードした音楽を車内のオーディオですぐに再生できるなど、クルマを中心としたさまざまなバリューチェーンに接続することができる。クルマを降りた後も、いまでいうタブレット端末のように、仕事にもプライベートにも使える便利な端末になるということだ。伊藤が3日間ほとんど徹夜で仕上げた企画書を受け取った友山は、すぐにトヨタのさまざまな部署に働きかけ、G-BOOKを具現化するための活動を開始したのであった。
クルマとお客様をつなげるという、これまでにない新しいチャレンジに当時積極的に協力してくれたのは、トヨタの電子技術部と、VVCと呼ばれるトヨタの社内ベンチャーだった。VVCは、若者を吸引するために、従来のトヨタ車にない新しいコンセプトのクルマWiLL CYPHAを企画していたが、突出した外形デザインは出来たものの、コンテンツが必要だった。G-BOOKはまさに渡りに船だったわけだ。
電子技術部は車載マルチメディアといわれる、カーナビや車両の電子プラットフォームを設計開発する部署である。現在のコネクティッドカンパニープレジデントの山本圭司もこの部署の出身で、トヨタコネクティッドとはいまでも関係が深い。
G-BOOKの企画書を見た電子技術部は、これまでのカーナビの概念を大きく変えるアイデアに共感し、積極的に端末開発に参加した。「デタッチャブルな端末」を実現するために、さまざまな試行錯誤を繰り返し、試作品開発が行われた。
しかし残念ながら、インターネットにつながりカーナビの機能を有する端末を創ろうとすると、端末は巨大化(B4ノートパソコンサイズほどの大きさ)し、クルマへの設置はもちろん、カバンに入れて持ち歩くにはあまりにも大きすぎた。
そんな試行錯誤をギリギリまで続けた友山たちは、車両の開発を遅らせるわけにはいかず、「デタッチャブルな端末」を諦めて、カーナビに新たな機能を組み込むことを決断した。
G-BOOKはWiLL CYPHAとともに、2001年10月の東京モーターショーでその構想が披露され、かくしてG-BOOKが2002年に発売される新型車に搭載されることが決まった。そして、G-BOOKのデータセンターと通信サービスの開発と運営は、ガズーメディアサービスが担うことになった。伊藤が、3日で仕上げた企画書が功を成したのである。
2001年10月18日、ガズーメディアサービスはトヨタが主催するG-BOOK開発会議に招集された。コンビニF社からe-Towerの正式契約をもらった10月5日からまだ2週間経っていなかった。e-Tower受注の喜びに浸り、ゆっくり息をつく暇もなく、この日からガズーメディアサービスは次のステージへと本格的に走り出したのである。
G-BOOKセンターの立ち上げ
まず最初にやらなくてはいけないのは、G-BOOKセンターの構築である。クルマに搭載される車載機(ナビ)と通信し、さまざまな処理をおこなうプラットフォーム(共通基盤)の開発である。その開発を担当したのが弱冠26歳、出向社員としてガズーメディアサービスの創業メンバーとなり、3ヶ月後にプロパー社員第1号として入社したばかりの井谷周一である。しかも、前述のように2001年の新春から秋にかけて、ガズーメディアサービスはe-TowerとMu-Boxの開発や運用で社内はてんてこ舞の状態。エンジニアは総出でその対応に当たっていた。そんな中、当初からe-Towerとは異なるシステムインテグレーションの業務を担当し、ちょうど「toyota.jp」のウェブサーバーを移行するプロジェクトが終わり、うまい具合に手が空いた井谷に白羽の矢が立ったのだった。「みんながe-TowerやMu-Boxをやっている傍で、僕だけがG-BOOKの開発をやっている。なんだか、一人蚊帳の外みたいで、疎外感がありました」と井谷は振り返る。
e-Towerの開発で、マルチメディア・プラットフォームの構築の実績はガズーメディアサービスにはあった。しかし、1日1回、衛星でプログラムを配信して端末のプログラムやデータを更新するバッチ型の処理をしていたe-Towerに対して、G-BOOKのセンターは常時接続で車載機(ナビ)と通信してトランザクションを頻繁におこなう。同じマルチメディア・プラットフォームでもこの二つには大きな違いがあった。しかも、「藤原さんからは絶対にトランザクションは切らしてはいけないと厳命されていました。だからバックアップも考えなくてはいけなかった」という。さらに、将来的にG-BOOK対応の車載機(ナビ)を搭載するクルマの台数が増えていくことも見越して構築しなくてはいけない。つまり、G-BOOKのプラットフォームは銀行のオンラインシステムのようにミッションクリティカルであり、かつ、拡張性もないといけなかった。通常であれば、その開発は大人数のチームで数年かけてやるような規模になる。それをたった一人でしかもとても短期間でやり遂げなければいけなかった。
そんな井谷をサポートしたのが、小川郡治など、富士通チームの常駐者の面々である。本来であれば、ガズーメディアサービスの井谷と小川たち富士通チームは開発の元請と下請け(再委託先)の関係にあった。しかし、G-BOOKセンターの開発の現場ではそんな垣根や遠慮は一切なし、同じ釜の飯を食べる仲間だ。
G-BOOKセンターの開発チームは20人くらいの所帯だったが、2019年ラグビーW杯日本代表のように国籍の違うメンバーがワンチームとなって勝利を目指した。固い団結とチームワークで難しい開発に挑戦していた。そして、この数年後、小川たちは転職してデジタルメディアサービス(ガズーメディアサービスの次の社名)に入社。名実ともに同じ釜の飯を食べる仲間になった。
車載機(ナビ)の開発はトヨタの第一電子技術部が担当だったが、その開発も難航し遅れが出ていた。G-BOOKセンターの開発は車載機(ナビ)の開発と同時並行でおこなっていたため、テストをするにも十分な環境になかった。センターの開発も遅れた。結局、2002年10月のWiLL CYPHAの発売にはギリギリ間に合ったが、8月の記者発表の段階では未完成。あの記者発表会場でのデモは、実はかなりハラハラものだったのである。
G-BOOKの画面デザインを奪取
G-BOOKの開発においては、ガズーメディアサービスはデータセンターの構築だけでなく、車載機(ナビ)の画面デザインも担うことになった。そのデザインを担当したのは企画書を手掛けた伊藤である。本来なら、トヨタの純正の車載機なので、トヨタのデザイン部が、トヨタのTS(Toyota Standard)に定められた厳格なルールに基づいてデザインしなければならないはずだった。しかし、友山は伊藤にやらせた。
友山には「G-BOOKは、GAZOO立ち上げ以来、豊田が求め続けてきた“顧客との接点”となるもの。まさにその接点となるべき画面のデザインは、我々がやらなければならない」という気持ちがあった。
伊藤は、100枚にも及ぶすべての画面とその画面遷移をデザインするはめになった。蓋を開けてみると、伊藤のデザインは、いままでのトヨタのカーナビやオーディオでは見たこともないユニークなものだった。画面の左上には、コミュタローと呼ぶアイコンが常に表示される。それがお辞儀をしたり、通信中はバタバタしたり…。若干、遊び心満載の感はあったが、WiLL CYPHAというクルマの性格にはピッタリ一致していた。
ところが、そのデザインがほぼ完成した矢先、伊藤のところに、トヨタのデザイン部から出頭命令が来た。デザイン部の部長が、「ガズーメディアサービスの無名のデザイナーごときが、トヨタ純正の車載機(ナビ)の画面をデザインするとはけしからん!」とカンカンに怒っているとのことだった。トヨタの中でも怖がれる部類の怒らせると厄介な部長だった。
友山は、それを聞くや否や、1人で部長のところに出向いていった。
「何か問題ありましたか?」
友山の唐突な問いかけに、謝罪に来るものかとばかり思っていた部長は焦った。部長は、トヨタのデザイン部は、長年に渡り、オーディオやカーナビの画面をデザインし、安全性や操作性を煮詰めてきたということ、その集大成がTSであり、いかなるデザイナーもTSに従ってやるべき、ということを説いた。
それをすべて聞いた後に友山はこういい切った。「これはカーナビでも、オーディオでもない、だからTS自体がないんです。しかも、お客様の意見を吸い上げて、センターから画面をどんどん更新していく。いわば、インターネットの車載機です。トヨタにそういう経験のあるデザイナーはいません」
部長は、この男、脅しの聞く奴ではないとすぐに悟った。また、こういう分野に経験あるデザイナーは自分の配下にいないことも事実だった。何より、もうやり直す時間もなかった。
「わかった。あなた方に任せるが、うちも一緒に勉強させてくれ」。部長は渋々認めざるを得なかった。かくして、ガズーメディアサービスは、公式にトヨタの車載機の画面をデザインすることになった。
DCMで「必ずつながる」を実現
G-BOOKの開発は、初めてのことばかりだったが、中でもDCMを車載することは大きなチャレンジだった。実は、G-BOOKの登場前に、トヨタには1998年4月からサービスを開始していたMONET(モネ)と呼ばれる、カーナビにケータイを接続する情報サービスがあったが、ほとんど普及はしていなかった。その原因は単純明白。通信に携帯電話(以下、ケータイ)を使っていたからである。
MONETは有線でカーナビとケータイを接続していた。それだけでも煩わしいが、ケータイは機種によってコネクタの形状が異なり、接続するピン数も2種類の規格があった。そのために、カーナビに接続するには、ケータイに対応したケーブルが必要だった。この「種類の対応」がまず面倒だった。
そして、問題はコネクタの中を流れる制御信号の仕様が完全に統一されていなかったことにあった。そのため、ケーブルを使ってカーナビと接続できても、必ずMONETが利用できるとは限らなかった。
実際に利用できるかどうかは接続してみないとわからない。だから、新しい機種が発売になるとすぐに入手して、利用できるかどうかをテストした。利用できた機種はMONET対応機種としてウェブサイトで広報した。利用できなかった機種についてはメーカーにフィードバックし、原因を調査してもらった。その結果、使えるようになる機種もあれば、ダメな機種もあった。
そんな状況だから、お客様からすれば、専用カーナビや自分のケータイにあったケーブルなどを準備し、利用申し込みを済ませ、いざ、利用しようとしたら、「つながらない」ということが起こる。これでは、お客様は混乱するし、クレームになる。販売店のスタッフがこの辺りを上手にフォローしてくれればいいのだが、まだイケイケドンドンでクルマを販売することに集中していた当時の販売店にそれを期待することは難しかった。
この反省に基づいて、G-BOOKでは専用通信機DCMを開発し、WiLL CYPHAに標準搭載した。だからユーザーのケータイを接続する必要はない。ACC-ONですぐにG-BOOKは立ち上がり、利用できた。そして、いつでもどこでも「必ずつながる」を実現したのである。
DCMは当時普及が始まっていた、KDDIのCDMA方式のau携帯電話と同じ通信ネットワークを使い、CDMA2000 1xサービスエリアでの最大通信速度は144kbps、それ以外のcdmaOneサービスエリアでは64kbps。パケット交換方式による常時接続を実現した。
専用の通信端末を搭載したことにより、マイカーサーチなどのセーフティ&セキュリティのサービスの提供が可能になった。繰り返しになるが「安心と安全を軸としたサービスの構築・お客様との接点」とは「お客様との絆」といっても過言ではない。この意味は極めて重い。だからこそ「必ずつながる」ことが求められたのだ。
通信料金が最大のネックだった
このDCMの開発とG-BOOKでの採用にあたっては、トヨタの情報事業企画部にいた山田博之が尽力した。山田は通信キャリア3社が合併してできた新会社(現在のKDDI株式会社)の設立の担当者だった。
「新会社はスタート時、たくさんの有利子負債があり、業績回復のため、売上アップとトヨタの本業との関連強化という大きなテーマがありました。そこでクルマに搭載する専用通信機DCMの企画を作り、技術部をはじめトヨタ社内の関連部署に提案して回りました。しかし、どこの部署でもDCMの耐久性と通信の利用料金がネックとなり、提案は受け入れてもらえない。けんもほろろの状態でした。そんな中、唯一、手をあげてくれたのがG-BOOKの連中でした」と、当時を振り返る。
そしてG-BOOKはパケット通信だけということで、山田がKDDIと掛け合って特別な料金プランを設定してもらう。耐久性の問題もクリアしてG-BOOKでの採用がなんとか決まったのであった。
このDCMは、後のテレマティクスサービス発展に多大なる影響を与えている。いまでは多くの人が認知している緊急通報サービス「ヘルプネット」や地図更新サービス「マップオンデマンド」、プローブ交通情報などもDCMがあったからこそ実現できたといっても過言ではない。またその実現にあたっては音声通話機能の追加など開発の苦労もさることながら、その舞台裏では通信の利用料金を安く抑えるためのKDDIとのとてもタフな交渉が必要だったことも忘れてはいけない。そして、そんな苦労の甲斐あって、今日ではレクサス車はもちろんトヨタ車の全車種にDCMが標準搭載され、コネクティッドカーの重要な屋台骨となっているのだ。
この章の登場人物
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- 伊藤 誠(いとう まこと)
- トヨタコネクティッド常務取締役
トヨタコネクティッドノースアメリカChief Administrative Officer(兼務) - デザイン会社勤務時代に友山たち業務改善支援室のメンバーと出会う。GAZOO時代の仕事ぶりが高く評価されて2001年1月にプロパー社員第1号としてGMSに入社。そのままGAZOO事業部に出向し、GAZOOの改善やインパクのトヨタパビリオンの企画・制作を担当。同時に、G-BOOKの企画段階で活躍。当時は金髪のロン毛。ジーンズにTシャツという出で立ち。「GAZOOにはトヨタらしくないスタイルの若者がいる」とマスコミからも多数の取材を受けていた。デザイナーとして、G-BOOKのテンプレート画面のほか、GMSの会社ロゴやコミュタローのデザインなどを手掛ける。
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- 山田 博之(やまだ ひろゆき)
- 株式会社トヨタマップマスター代表取締役社長
トヨタメディアサービス(DMの後身、TCの前身)元社外取締役 - 現在の車載通信機DCMの全車搭載の原点となるG-BOOKへのDCM搭載を中心となり推進した人物。身長が高く、学生時代はアメリカンフットボールのDE(ディフェンスエンド)として活躍。相手QBめがけて果敢にラッシュする気概はビジネスでも大いに生かされた。
トヨタの情報事業企画部で通信キャリア3社合併を担当後、新会社(KDDIの前身)の売り上げ拡大とトヨタの自動車事業との連携を目的に車載通信機DCMを企画。G-BOOKに提案し、採用される。その後、e-TOYOTA部に異動して2011年から15年まで部長を務めた。トヨタメディアサービスの社外取締役に就任後、中国やアメリカでのテレマティクス展開において、現地の通信キャリアの選定や料金交渉などを担当した。新幹線出張時の別名「居酒屋のぞみ」をこよなく愛し、ラーメンフリークとして、個人的に膨大なデータベースを保有。同時代に部内に山田が2人いたことから「デカ山田」と呼ばれていた。