第3章 e-CRBと海外展開
GTMC「広州の奇跡」
2006年8月15日に販売を開始したGTMCは順調に業績を伸ばしていく。GTMCの2008年の一車種一店舗あたりの販売台数は491台。他のディストリビュータが121台とか180台だったのに比べると圧倒的な販売効率の高さを誇っていた。そして、カムリに続いて2008年にはヤリス、2009年にはハイランダーの生産を開始。取り扱い車種も増加し当初116店舗だった販売店数は2011年には263店舗にまで拡大する。もちろん、そのすべての店舗にe-CRBが導入されていた。しかし、2008年からの一時期、中国市場はこれまでの急成長から一転して、伸びが鈍化する。そしてリーマンショックが勃発した。ちょうど、その時期、友山がGTMCの総経理助理(社長補佐)として出向していた。広州の奇跡はe-CRBによってもたらされた。
友山、中国GTMCに渡る
2008年1月、中国は広州、GTMCの工場で新年行事が行われていた。その行事のクライマックスで登壇したのが、その年から総経理助理に就任した友山である。友山は、その場に集まった1000人以上の従業員にむかって、覚えたての中国語で「皆さんで新しい未来を切り開きましょう!」と叫んだ。つまり、友山はトヨタメディアサービスの社長を兼務しつつGTMCの役員にも就任したのである。その背景には、せっかく全販売店に導入したe-CRBを、自動車工場までつなげて、メーカー、販売店、お客様をジャストインタイムにつなぐ、という豊田の想いを、ここGTMCで一気に実現したい、という友山の考えがあった。友山は、その考えを当時の副社長であり中国本部長であった豊田に打ち明けたところ、豊田から、「では、友山、おまえが中国に駐在してそれを指揮しろ」といわれて、急遽、そうなったのである。それは、友山にとっても本望なことだった。結局、友山は2008年1月から2010年6月までの2年半、中国のGTMCに駐在しながら、日本のトヨタメディアサービス社長を兼務することになった。
工場のヤードや販売店の滞留車が増大した
折しも、友山がGTMCに駐在を始めた2008年から中国の市場の伸びも鈍化し始めた。そして2008年9月にリーマンショックを迎えることになるのである。
満潮時には見えなくても、引き潮になって潮位が下がってくると、海底にあるさまざまな岩が見えてくる。それと同じように、市場が成長している時には見えなかったさまざまな問題が、いろいろ見えてきた。それは工場の出荷待ちヤードや輸送ルート上、そして販売店で滞留車が増大するという形で現れた。
そこで原因を調査してみると、配送は輸送業者、店頭在庫は販売店任せになっていて、ディストリビュータとして異常管理ができていないことがそもそもの原因だった。出荷待ちヤードに滞留している車両の多くは、生産したものの販売店に引き当てができない車両と販売店から入金がないので出荷できない車両であった。また、販売店からのオーダーも担当者の「カンとコツ」に頼ったものであったため、不良オーダーが頻発し、それが店頭の長期在庫の原因となっていた。また、当時は生産開始の2ヶ月前に生産計画が確定しその後は変更できなかったため、市場や店頭在庫の変動に対応できていなかった。結局、2ヶ月前の計画で生産された車両がたとえその時点では売れ筋から外れていても、販売店に押し込まれて店頭在庫になっていた。
こうした課題を解決すべく、友山たちが立ち上げたプロジェクトが製造と販売が一体となったSLIMプロジェクトであった。SLIMとは「Sales Logistics Integrated Management」の略称。つまり販売と物流(造りと運び)を統合管理するプロジェクトである。それは販売現場の情報を、工場の生産や物流につなげて、販売やお客様の視点で見たジャストインタイムに挑戦することであった。販売店の売れと在庫の情報を生産と物流にフィードバックし、必要な分だけ造り、運ぶ仕組みを構築することを目指した。
お客様のニーズ(オーダー)に対してジャストインタイムにする
トヨタの工場は販売店からのオーダーに対して、限りなくジャストインタイムに車両を生産して出荷する。しかし、ここで友山たちが挑戦するのは、お客様のオーダーから生産、配送、販売、納車までのすべての工程をジャストインタイムにすることであった。これは昔から豊田と友山が実現したかったことである。
序章で紹介した「鶏そぼろ弁当と幕の内弁当」の話を思い出していただきたい。本当に人気があるのは鶏そぼろ弁当なのだが、製造数が少ないためすぐに売り切れてしまい、お客様は仕方なく大量にストックのあった幕の内弁当を購入する。その結果、幕の内弁当の販売数がどんどん伸びる。それを見て、弁当を製造するメーカーの人間は「幕の内弁当は人気がある」と勘違いするという話である。「トヨタでも、もしかしたら同じように、お客様が本当に欲しい色やグレードではないクルマを大量に作ってしまい、それを販売店の努力で売り込んでいるだけなのに、人気があると勘違いしていないか?」と豊田は危惧していた。この危機感から「お客様の本当のニーズが知りたい。そのために、もっとお客様との接点が欲しい」と考え、それがGAZOOやe-Tower、G-BOOKの開発につながっていったのはこれまでお話しした通りである。
そして、e-CRBにおいても話はここに戻るのである。豊田と友山が長年、求め続けてきたお客様のニーズに対して、限りなくジャストインタイムな造りと運びの実現。その長年の挑戦がSLIMプロジェクトによって、ここ広州で結実しようとしていた。
生産から納車までの全行程の車両一台一台を視覚化
最初に取り掛かったのは、どこに、どれだけの数の車両が在庫として滞留しているのかを把握することだった。「滞留がどこで発生しているのかを一目で見えるようにしてほしい」。GTMCの社長である葛原徹総経理は、社長補佐である総経理助理の友山を呼んでそう指示した。葛原の頭にあったのはトヨタの元町工場に設置されていた表示板である。そのボードには工場の中の各工程にある車両が一台ずつ表示されていた。友山は、葛原のいうイメージをすぐに理解できた。なぜなら、この20年以上前に、葛原が元町工場の組立課長だった時代に、友山は生産技術部で、その組立工場のラインコントロールシステムの開発を担当していたからだ。当時のシステムは工場の中だけだったが、e-CRBによって、それを販売店までつなげられる!友山は興奮した。
友山は、葛原からの指示を受けるや否や、「生産、配送から販売店の在庫、商談中、販売、納車まですべての工程にどれだけの数の車両があって、その車両の一台一台が滞留しているのかどうかが一目でわかるボードを開発するぞ!」と藤原に開発を指示した。そして藤原は広州に長期出張してGTMCに常駐し、開発をスタートした。
まずは、縦軸にずらりと販売店を地区別に並べ、横軸に販売計画、資金、生産、ヤード、輸送中、店頭在庫、納車待ちと工程が並ぶ表を作った。そして、このマトリックスの中に車両一台ずつをアイコンで表示。アイコンにタッチしてドリルダウンすれば、その車両の詳細情報(車種やグレード、色、その工程でのリードタイムなど)を見ることができるシステムを開発した。各工程では標準リードタイムを設定していて、標準リードタイムに納まっている車両は緑色、それを超えて滞留している車両は赤色で表示された。こうして、どの工程でどの車両が滞留しているかが一目瞭然で把握できるようになった。
こうしたことができたのは、すべての販売店でe-CRBが導入されていて、販売店のそれぞれのプロセスの状況がリアルタイムに取得できたからである。生産の情報はTACTと呼ばれた生産管理システムから引っ張ってきた。と口でいうのは簡単だが、これもかなり大変だった。この部分は梶田理が尽力した。
問題はこのシステムを表示するモニターである。なにせ生産計画から納車されるまですべての車両一台一台をアイコンで表示するわけだから、表示する車両の台数は膨大になる。そんな情報量を一覧で表示できるモニターは存在しなかった。結局、縦横に4つずつ、都合16台のパソコンモニターをフレームで連結して、高さ2m、幅4m。6500万ドットの専用モニターを独自で開発した。
これがSLIMモニターである。
SLIMは管理システムではない。オペレーションシステムだ!
SLIMモニターは2008年7月から運用が始まった。SLIMによって「どこの現場の、どの工程で、どのくらい滞留が発生しているのか」が、一目でわかった。その前に立てば、「どの販売店がいつ、何を在庫し、それをいつ商談し、販売し、納車するのか?」という販売現場の情報が時々刻々と把握できた。
GTMCでは毎週火曜日の午前11時からSLIMモニターの前で役員会が実施された。出席者は葛原総経理、友山総経理助理、そして役員、販売部長、生産管理部長、需給担当、販売店を担当する地区担当員(フィールドマン)、輸送会社のメンバーだった。
この会議はSLIM会議と呼ばれ、そこでは基準値を超えた異常(滞留)を全員で共有した。そして「それがなぜ発生しているのか?」、担当者はその理由の明確な説明を求められた。そして、すぐさまその場で対策が話し合われ、決定された。それを受けて、担当者はすぐに現場に電話で指示を出し、その対策を実行した。滞留の原因が社内の販売ルールにあることがわかるとすぐその場でルール改正が話し合われた。SLIM会議には各部門のトップや関係者がすべて揃っていたので、それらが可能だった。すべてが即断・即決・即行動だった。
SLIMはその名前こそ「Management」となっている。しかし、単なるマネジメントシステムではない。その運用を見る限り、その場で現場に指示を出して改善するオペレーションシステムであった。
また、それゆえに現場からの情報は限りなくリアルタイムに更新されることが求められた。それが実現しないと改善の進捗管理ができないからである。
そして、改善が進み、滞留が減少してくると、今度は基準となるリードタイムが短縮された。こうして生産から納車までのリードタイムがどんどん短縮されていった。
販売現場のリアル情報を生産や物流に反映する
そもそも自動車の生産はすべてが受注生産ではない。あらかじめ需要を予測し見込みで生産計画を立てる。販売店からの注文を、その生産計画の枠に振り当て(アロケーション)していく。この枠から外れた注文が受注残となる。販売店からの受注残が増加していて、一方で販売店の店頭在庫が増加している場合は生産計画が市況にあっていないことになる。当然、これも指摘され、生産計画の見直しが指示される。
また、受注残や店頭在庫の増加が販売店の発注に問題があるケースも少なくなかった。販売店もメーカーと同じ理由から、お客様からの注文を受けてすぐに納車できるように、あらかじめ見込みで注文を出し、適正な店頭在庫を持つことが必要だった。売れ筋の車種やグレード、カラーについては特にそれが必要だった。しかし、それが担当者の経験に基づいたカンとコツによって市況や店頭在庫を正しく把握することなく発注されていたケースがしばしばあった。
この対策として、まず販売店の新車在庫管理を支援するIMS(Inventory Management System)が開発され、2009年2月から全店で稼働している。IMSはその名の通り販売店版のSLIMモニターである。IMSには車種やグレード、カラー別に在庫数や鮮度(在庫期間)が表示され、オーダー状況や車両の店頭への到着予定日も把握できた。これにより、販売店は、「何が足りなくて、何が余分か?」がすぐにわかるようになった。
さらに、TOSS(Total Order Support System)という提案型オーダーシステムを開発。これは販売実績や店頭在庫と物流在庫、受注残、基準在庫、販売計画を勘案して、最適なオーダーを算出し、販売店に提案するシステムである。2009年6月から全店で稼働しており、これによって不良オーダーを水際で抑止しようとした。
このTOSSの稼動とタイミングを合わせ、工場でもそれまでは生産月の2ヶ月前に型式を確定し、ボデー色についても1ヶ月前になると変更ができなかった生産計画のやり方を改善し、市況の変化に合わせてギリギリまで注文変更ができるようにした。
広州の奇跡がついに結実
こうして製販が一体となったSLIMプロジェクトによって、生産からお客様に納車されるまでの間が一貫してジャストインタイムになっていった。工場はお客様が欲しいクルマを生産し、短期間でお届けできるようになっていた。各工程での滞留在庫はみるみる減少していった。そして、豊田と友山の長年の夢がここ広州でSLIMによって結実した。
2008年9月15日、アメリカのリーマン・ブラザーズが経営破綻し、それがきっかけで世界規模の金融危機が発生。その波は広州にも押し寄せた。この時ばかりはSLIMモニターは異常在庫を知らせる赤のアイコンの点灯で真っ赤に染まった。
さすがにSLIMを持ってしてもリーマンショックの異常事態を止めることはできない。しかし、世界中の企業が「一体、何が起こっているんだ?」と大混乱に陥っているとき、GTMCはSLIMによっていち早く異常の発生を認知し、生産調整などの対策を講じることができた。リーマンショックはSLIMがその本領を発揮したエポックであった。
こうして、GTMCのSLIMプロジェクトは「広州の奇跡」と呼ばれるようになった。噂は世界中のディストリビュータの間で広がり、2008年9月にはTMT(タイ)、TMKR(韓国)、TMAP(シンガポール)、TMCI(中国)、そして2009年にはTME(ヨーロッパ)、日本のトヨタの生産管理部、FTMS(中国)、TMCA(オーストラリア)、UMWT(マレーシア)、TMI(イタリア)などがSLIMの視察のために、GTMCにやってきた。友山たちはこの視察を喜んで受け入れ、惜しげなくその全容を公開した。そして、各ディストリビュータの需給改善の動機付けに寄与した。
広州の奇跡が実現できた背景にはGTMCの全店にe-CRBが導入され、標準オペレーションが徹底していたことはもとより、GTMCや販売店の幹部、現場のスタッフがSLIMの目指すことをきちんと理解し、心を一つにしてその実現に取り組んだからこそ奇跡は起こったのだ。カスタマーインへの挑戦を心に誓った仲間たちの絆がなくてはできなかった。
そんな一人がGTMC第一店の李総経理だった。李はモデル店だった第一店の店長としてIMSやTOSSの開発などにも積極的に協力した。そしてその後、GTMCの副総経理を経て、現在はTMCIの副総経理になっている。そして、いまでも第一店の店長時代に店舗に来店した豊田と一緒に写りこんでいる写真を人生の宝物として、とても大事にしている。
香港タッチ、マカオタッチで出張支援
また、藤原たち長期出張者はビジネスビザの在留期限の30日が近づくと一度、香港に出国して、日帰りで広州に戻ってビザの期限を更新するということを繰り返した。これを当時は「香港タッチ」と呼んで多くの出張者が実践していた。人によっては「マカオタッチ」もあった。そして、出張の滞在期限180日のギリギリまで広州に常駐して開発にあたった。
2008年から2010年までの間、友山はもちろん、小島や藤原などトヨタメディアサービスの主要メンバーは広州に来ていた。この間、トヨタメディアサービスでは「インターネットとクルマがマチとムラをつなぐ」というコンセプトのもと体験型ドライブ「GAZOO mura」など新しいプロジェクトがスタートしていたが、取締役の吉岡輝や京近渉らがしっかり留守を守っていた。彼ら二人の働きがあったからこそ、安心してSLIMに全集中できたと友山は感謝している。
e-CRBのさらなる進化は続く
中国ではe-CRBの展開と並行して、G-BOOKの展開準備が進んでいた。早い時期からデカ山田こと山田博之が中国の総務省にあたる部署に人脈を作り、チャイナテレコムや
なにせ新しいものが大好きなお国柄である。G-BOOKは中国の市場にあっていた。特にオペレーターサービスが人気で、日本の約24倍も利用され、うれしい悲鳴をあげていた。同時に、G-BOOKはe-CRBと連携した。G-BOOKで車両の走行距離がわかるので、その情報を販売店のコールセンターシステムのi-CMSに取り込んで、走行距離に応じた点検入庫誘致のコールを開始した。それまでは納車1000km点検といっても納車日からの経過日数で「そろそろ走行距離が1000kmになりますよね。点検に来てください」という誘致だったが、G-BOOKを使った誘致コールでは「走行距離が1000kmに達しましたので点検に来てください」というコールになる。これで格段に入庫率はアップした。中国でのG-BOOK展開後の普及ではTMCIに出向した松枝伸彰がお客様からの要望に粘り強く対応し、貢献した。
この中国での成功は、日本国内でG-BOOKを車両のCANにつないで車両のさまざまな情報を把握し、販売店スタッフが遠隔で車両診断をおこない、走行アドバイスや必要に応じて入庫を促す「eケア」の開発を推進した。これがのちに、トヨタのコネクティッド戦略へとつながっていった。
また、e-CRBも各地で進化を続け、タイでは中古車の物流改善などにも広がっていった。そしてiPadを使った次世代e-CRBの開発が始まり、GTMC第一店から全世界に展開が広がっていった。iPadを導入することで販売店のセールススタッフ一人ひとりがネットワークでつながり、ワークフローが大きく変わった。一例を挙げると、お客様がクルマで来店すると入り口にあるカメラが車両ナンバープレートを読み取り、お客様の名前とクルマを特定する。お客様の来店の情報は受付担当から担当のセールススタッフのiPadに送られる。その連絡を受けて、セールススタッフはショールームの玄関でお出迎えをする。同時にお客様から入庫予約が入っている場合はサービスのフロントにも連絡が入ってサービススタッフは点検がすぐ開始できるように準備する。セールススタッフのiPadにはお客様情報をはじめ必要な情報がすべて入っているので、いちいち自分のデスクに戻らなくても必要な情報がすぐその場で取り出せる。だからお客様を待たせることなく、いつでもどこにいても対応できる。次世代e-CRBでは従来の業務改善の領域を広げて、接客やスタッフのワークフロー、販売店の店づくりにまでそのカバー範囲を広げている。
ちなみに、こうした次世代e-CRBでのiPadを使った接客はSLIMなどとともに、中国でのトヨタの挑戦として、2012年5月、テレビ東京の『ガイアの夜明け』で紹介された。
またe-CRBは現在、日本にも逆輸入されており、2020年12月時点ではネッツ東埼玉が世界で最も進んだe-CRB展開事例となっている。
自立し成長を続ける海外戦略事業体(SBU)
さて、e-CRBの進出に合わせてタイや中国に設立した海外戦略事業体(SBU/Strategic Business Unit)がその後、どうなったかについて言及しておく。最初にバンコクに設立したToyota Connected Asia Pasific(TCAP/DMAPの新社名)だが、タイのすべての販売店へのe-CRB展開やオーストラリア、韓国、マレーシアへのe-CRB展開もサポートしていたので、最初の時期はe-CRBが売上のほとんどを占めていた。しかし、立ち上げが終わると需要はどんどん落ちてくる。そこで、TMTと連携して、スマートG-BOOKというスマートフォンを使ったG-BOOKのサービスを開始。さらにはデジタルマーケティングというTMTの見込み客フォローシステムの開発、最近ではMaaS(Mobility as a Service)の案件も増えている。
そして、TMTと一緒にタイ独自のG-BOOK(T-Connect)を開発し、2020年6月にローンチ。この独自のテレマティクスは周辺のインドネシアやベトナムでも注目されており、今後、周辺国にも拡大する予定である。こうした状況なので、TCAPの売上に占める日本がらみの売上は、いまでは20%程度になっている。「当社はもともとe-CRBからスタートした会社です。e-CRBの活動の中には『自立』のDNAが組み込まれていたと思います。だから自然と、日本からの売上に頼らず、現地で、自分たち自身の手で、ビジネスを生み出していこうということになったのだと思います。これは中国やインドでも同じだと思います」と現社長の澤村幸一は語る。もっとも、しっかり者のオーは「モット、日本カラノ仕事ガホシイネ!」といっているけど…。わずか10名程度でスタートしたTCAPはいまでは社員だけで100人。オフィスに常駐で働いている外注先のスタッフも入れると170人くらいの大きさの会社に成長している。
Toyota Connected China(TCCN/BMTSの新社名)はe-CRBの展開やG-BOOKの開発で業績を伸ばし、システム開発会社として大きく成長した。また、一度は失敗したシステム台車の中国国内での開発・製造は、あの直後、現地の日系企業の力を借りて成功する。これまで約2000台を生産し、中国国内はもちろん海外にも輸出している。
タイや中国に続いて、インドのバンガロール、UAEのドバイ、米国のダラス、英国のロンドンにも海外事業体は設立されている。もともと海外戦略事業体(SBU)は友山がシンガポールにいた時ビジネススクールで学びながら構想を作ったことの一つ。海外戦略事業体(SBU)は、e-CRBに限らずテレマティクスなどさまざまなビジネスをトヨタがグローバル展開する際に、現地のシステム開発・展開・保守を強力にサポートし、トヨタのグローバル戦略に貢献する戦略ユニットという位置付けである。そして、それぞれの戦略ユニットは相互にノウハウやリソーセスを共有化し、連携して効率的な世界展開を推進していく。
現在、各国の海外事業体(SBU)は自立して、それぞれが違った個性を持ち、異なるカタチで成長を続けている。今後、これらの戦略ユニットが有機的に連携することで、さまざまなシナジーが生まれていくはずだ。e-CRBをきっかけに世界に広がった彼らが将来、どんな新しいビジネスや価値を生み出していくのか?大いに期待したい。
KEY PERSON Interview
トヨタ自動車
情報システム本部長
北明 健一
人と人が通い合わないとe-CRBは実現できない
96年からトヨタの業務改善支援室で日本国内の販売店の業務改善支援の仕事をやってきました。そして、2003年からタイ、2005年からは中国で、現場のリーダーとしてe-CRBの展開を担当しました。さらに2007年から2008年にかけてはタイのTMT、2017年から2018年はGTMCに出向して、e-CRBの深化をサポートしました。
初めてのe-CRBの展開。しかも異国の地での活動でしたから、さまざまな苦労はありました。「タイや中国は大変だよ。常識やビジネス習慣が全然違うから。約束は守らない。時間には遅れる。平気で嘘をつく。裏切られる。タイの女性はよく働くけど、男はすぐサボる…」なんてことを周りからたくさん聞かされましたが、実際、現地に行ってみて、私はそうは思いませんでした。また、タイや中国の人たちをそんな目でみないように心がけていました。
時間が守れなかったり、嘘をついたり、裏切ったりする人は日本にもいます。もしかしたら、その出現確率が日本よりタイや中国の方が高いのかもしれません。でも、それはあくまで確率の話。タイや中国の人が全員、そういうわけじゃない。だから、そういう先入観は持たないようにしました。「タイ人の〇〇%は〇〇ですね」とはいうことがあっても、「タイ人は〇〇だ!」なんてことは絶対にいいませんでした。
2007年にTMTに出向する挨拶に行ったとき、豊田さんから「とにかくタイという国とタイに住んでいる人たちを愛しなさい」といわれました。私にはその前にタイと中国での経験がありましたから、この言葉の深い意味がよく理解できました。「たまたまの縁で、自分がタイという国で仕事をさせてもらうこと、住まわせてもらうことにまず感謝し、敬意を払う。あとは、どれだけタイという国とタイの人たちを信じて、愛してやっていけるかが重要だ」という風に受け止めました。この豊田さんの言葉はいまでも私のポリシーの一つになっています。
タイでも雪かきをやりました
タイではコールセンターを開設し、システムを開発して、毎日、システムからの指示に従って電話をかけ、予約を取っていきました。こういう風に説明するとすごく簡単に聞こえるかもしれませんが実際はとても大変です。未経験のタイ人の若い女性を採用して教育し、リーダーを立ててチームを作る。電話をかけると、お客様に怒られ泣き出す女の子もいた。それでも頑張って電話をかけて予約を取り続けてもらう。でも、予約時間に来ないお客様もいた。ひと言で「電話で予約をとる」といっても現場ではいろいろなことが起こります。しかも、電話をかける対象は1万件以上ありました。その量を処理する。そのための現場を作り込む。そのことは、「トヨタの最重要プロジェクトだから」という錦の御旗があれば実現できるものでもありません。いくらお金をかけてシステムを開発したからって、できることではありません。やっぱり現場というのは、最後は人と人とが通い合わないと出来上がらないし、やりたいことは実現できません。これは本質なので、日本でもタイでも同じです。
人と人とが集まって何か新しい仕事をやるとき、もしくはいままでのやり方を変えるとき、誠意を持って相手に接する。自分の人間性をアピールし、人間力を発揮して相手からの信頼を勝ち取る。一方では自分の専門性の中で、論理的な部分はちゃんと説明して伝える。理と情で人を動かす。改善マンとしての根本の部分は日本でもタイでも同じです。
業務改善支援室の時代、北陸の販売店では改善を始める前に、まず雪かきをやりました。販売店の人と一緒に、雪かきで汗を流し、それによって心を通わせ、人間関係を作った。同じことをタイでもやりました。
そして「なぜ、これをするのか?」の理由と目的を相手に丁寧に説明し、納得してもらい、実行してもらう。そして、いつも現場に寄り添い、うまくいかなかったら、一緒に考える。困っていることがあったらすぐに対処し、改善する。この寄り添いのスタンスが大事なのは万国共通だと思います。
タイや中国では確かに言葉が通じないし、食事も日本と違います。でも、それ以外は何ら日本と変わらない。当時はそう思ってやっていました。
タイや中国で仲間たちは着実に育っています
実際のところ、タイや中国の入庫予約状況はひどかったです。現地のスタッフに理由を聞くとみんな「ほとんどのお客様は予約しても時間通りに来ないのが当たり前だ」といいました。では、「ちゃんと約束した時間にお客様に来店してもらうために何をしましたか?」と問いかける。それで「こちらからの働きかけ次第でお客様はきちんと来店してくれる」と気づき、行動した販売店ではどんどん予約率も時間遵守率も上がってきました。一方で、「お客様は予約してもきてくれない」と端からあきらめている販売店はいつまでたっても同じことをいっていました。もちろん、改善マンはそこをあきらめたりはしません。しつこくやり続ける。
武田信玄の言葉に「いい加減だと、言い訳が出る。中途半端だと愚痴が出る。一生懸命だと、知恵が出る」というのがあります。私は若い時、この言葉に出会ってからは、言い訳と愚痴をいうのは止めようと決めました。それを意識して行動していくとだんだん自分の口から発する言葉や思考が、課題とか知恵に変わっていきました。これって意識するとそういうふうに癖がつく。また、そういうふうに、私たち改善マンはしつけられてもきました(笑)。
e-CRBの展開では、「カスタマーインへの挑戦をつづける仲間たちをどんどん育て、増やしていこう」という豊田さんや友山さんの夢というか強い想いが根底にあったと思います。タイではせっかく育てた優秀な改善メンバーがキャリアアップで、ある日突然、辞めて他の会社にいくということもありました。もちろん、しょげましたよ。「あいつ、辞めちゃったのかあ」と。でも、そこでくよくよしても仕方ありません。また、次の人材を見出し、育てていくだけです。
2017年にGTMCに販売部門の本部長として出向したとき、販売部門でも「もっとTPS(トヨタ生産方式)やジャストインタイムを実践していかなければいけない」という風土が組織にしっかり根付いていました。また、販売店の中にも、社内にTPS改善チームとして社長の直轄の専任の組織を作り、改善に取り組んでいる販売店がいくつもありました。どんどん改善が進んでいて、現場力を上げていこうとするその取り組みには、驚きを超えて脅威を感じるくらいでした。各社が切磋琢磨して、改善に邁進していました。
またタイのDMAPや中国のBMTSでも人材が育っています。彼らは改善の現場ではいつも仲間でした。また、TPSに共感し、真剣にそれを習得した人もたくさんいました。
そんな同じ志を持った仲間たちが世界中に広がって増えていくのはとてもいいことだと思います。国や会社や立場が違っても、互いに切磋琢磨して、トヨタとお客様の間にもっと信頼される強固な関係を構築していけたらいいなと思います。
KEY PERSON Interview
TOYOTA Connected
China 董事長
梶田 理
得意技を増やして、新たな分野に挑戦する
挑戦したら勝ちにいく
GTMCでは基幹システムの開発を担当していましたが、システム部ではなく販売部の所属でした。FTMSで同様のシステム開発をしているときにはシステム部に所属していたのですが、「必要なのはブレない要件をつくることだ。要件を決める側が主導しないと物事が進まない」ということを痛切に感じたからです。システムはどこにいても作れますが、要件は販売部でないと作れません。そこで、2005年にGTMCの立ち上げに加わるときに、販売部に所属することを条件に参加を決めました。
GTMC立ち上げ時の人数は20〜30人くらいで、私が担当する基幹システム系と、e-TOYOTA部や流通情報改善部が担当するe-CRBのいわゆる利用系のシステム開発をしていました。お互いに「あれが欲しい」「これが欲しい」と、静かな縄張り争いがありましたね。それから50人になって、70人になるころには、中国人が増えてきて、車の販売に対して知識がない人が多くなってきました。そこで私が「〇〇という車の雑誌を読破しなさい」とか、「各社の販売実績のグラフ作ってみなさい」「システムの流れに沿って業務標準を作ってみなさい」などといっていたら、周りからいつの間にか『梶田教室』と呼ばれるようになっていました(笑)。
周りからは「こけるこける」といわれながらも、FTMSに追いつけ追い越せで、号口に向かって社内はイケイケムードでした。最終的にはe-CRBチームと一緒に、全116の販売店へのシステムとツールの同時展開を達成することができました。
基幹系システムから利用系システムへ
GTMCの立ち上げが完了して日本に戻った後、中国で一緒だった小島さんから「トヨタコネクティッドに来ないか」と誘われました。その時は中国以外でのグローバルな仕事も視野に入れていましたが、小島さんから「絶対に会ってもらいたい人がいるから!」と強く誘われました。そこでお会いしたのが、当時e-TOYOTA部長の友山さんでした。e-TOYOTA部の会議室に一人で行き、いざ対面すると、友山さんは開口一番、「噂は聞いているよ、来月から中国に行くから一緒にいかないか」と。独特の雰囲気というか匂いをピンと感じ、台湾11年、中国7年の18年ぶりに日本に戻ってきたのですが、わずか半年たらずでトヨタコネクティッドへの入社とGTMCへの出戻りを決めました。
中国の商慣習ではキャッシュ・オン・デリバリー(現金と商品の交換)が通常のため、ディーラーがお金を払わないと配車しません。そのため、資金がショートしているディーラーの販売車が未入金でヤードに溜まっていることも、珍しくありませんでした。そんな中、着任早々に友山さんの部屋に呼ばれ「車を工場から売れるまで見えるようにして、異常管理をしたい、それも数字ではなく一台一台チップで…できる?」という相談を受けました。私は「できます!」と即答。なぜなら、ちょうどGTMCの基幹システム上にディーラーやお客様へ納期案内するために、生産と物流の情報を取り込んでいたからです。このときに、これまで基幹システムでおこなっていた『データの取り込みや正しいデータの作成』が、『データをどう見せて活用していくか』につながりました。私が「データはありますが、どんな見せ方がいいですか?」と聞くと、友山さんは腕を両手いっぱいに広げて「でかいやつ!でっかいのにして!」と楽しそうにいいました。私はすぐに小島さんに相談して、ハードの設計を小島さん、チップの表示系を藤原さん、その他のデータ系を私の担当で制作に取り掛かり、約半年で16枚モニターのSLIMが完成しました。
膝を突き合わせて本音で改善
SLIMの導入は、最初はGTMC各担当者にもの凄く反抗されました。生産・物流・ディーラーの異常が1時間に1回更新されて見える化されるなんて、ディーラーからも地区担当者からもいやですよね(笑)。でも、プロジェクトはどんどん前に進みます。異常が出て赤くなっているところを改善するために、経営層や生産、物流、販売、e-CRBの主要メンバーがモニターの前に一堂に会して議論する、荘厳な『SLIM会議』が始まりました。最初の10回くらいは喧々諤々でしたよ。「なんで赤くなってるんだ!」「僕らだって一生懸命やっています!赤くなるには赤くなる理由があるんです!」「じゃあ理由をいってみろよ!」と怒号とも捉えられかねないようなやりとりが、毎回繰り広げられていました…。
会議は毎週火曜日だったので、みんな月曜日には赤くならないように必死にフォローを始めたり(笑)。そうこうしていると、週を追うごとに赤い異常表示がどんどん消えていくんです。いままで放りっぱなしだった問題が解消されて、最終的にはディーラーの在庫も適正になり、資金繰りもよくなり、お客様への納期も守られ、そのうちに皆やっぱりSLIMがないとダメだわ…となっていく、あの強烈なインパクトは忘れられません。
得意技を増やして新たな分野に挑戦
37年前、私はトヨタの外注プログラマーの一人でした。プログラミングが早いということを得意としていたので、自然と複雑で短納期の仕事が来るようになり、またそのおかげで、得意技や得意分野が増えていきました。そうして新たな分野に挑戦しては、勝ちにいく。
また、何かの課題を突き付けられたとき、「できない」というのは簡単ですが、私は「やれといわれれば、やりますよ。だけど、こういう条件にしてください」という必要な条件もしっかりと伝えてきました。自分から『やれる環境を整えていく』ことが重要だと考えていたからです。0か100の二択だと、苦しいだけですからね。まずは落としどころを見つけるようにする。それに自分で決めた環境なら、新しいことの連続でも、相談相手がいない状況でも、頑張らないわけにはいかない!そんな感じでここまでやってきました(笑)。どんな状況でもお互いがwin-winになれる方法を見つけることが一番大事ということです。
この章の登場人物
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- 友山 茂樹(ともやま しげき)
- トヨタ自動車役員・Executive Fellow、トヨタコネクティッド元代表取締役社長
- GTMCの特に営業部門にしっかりe-CRBを根付かせ、そして進化させるために2008年1月から総経理助理としてGTMCに出向。正式赴任する前に、GTMCの販売の現場の状況をもっとよく見ておきたいと、わざわざ内陸部の成都(四川省)や烏魯木斉(ウイグル自治区)、西安(陝西省)といった広州から離れた場所にある販売店を森光、カローラ東京から出向しGTMCの改善を手伝って来た田村温彦らと訪問、各地で熱烈な歓迎を受けた。海外での食事には十分に気をつけていたが、烏魯木斉の訪問時に向かった太古のオアシス都市トルファンで口にしたもぎたてのぶどう一粒で、食中毒になってしまった。しかし翌日の西安での重要な会議でのプレゼンでは、何事も無かったかのように成功に終わらせた。「中国に赴任するのにこんなやわなお腹ではダメだ!」と決意した友山は帰国後、病院に駆け込んだ同行者から「コレラや赤痢の伝染病ではなかった」という報告を受けると「俺はこの菌を育て、身体に抗体を作る」と病院に行かずに自らの体内の改善を図った。
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- 藤原 靖久(ふじわら やすひさ)
- トヨタコネクティッド専務取締役、トヨタ自動車e-TOYOTA部主査
- GTMCでは、小島、梶田とともにSLIMの開発を推進。「改善からサービスは生まれる」が口ぐせで、友山の指示を受けると、すぐにGTMCへ飛び、技術で課題を解決する、という強い想いで開発をスタート。リアルタイムでの車両一台一台の見える化では、各工程のリードタイム策定からモニターでの車両の表示方法まで徹底的にこだわった。まさに「改善体質」を体現する人物の執念だった。
GAZOOの初期メンバーとして改善をITで実現する男。「中古車販売を「電子そろばん」で変えた男」として日経クロステックにも記事化されたことも。足りないものは自分でつくるが口ぐせで、今でもはんだこてを手に専務席で熱心にモノづくりをする様子が目撃される一方、スタートアップ企業と気軽にSNSでコンタクトし、プロジェクトに結びつけることも。好奇心旺盛でフットワークが軽く少年のような一面を持つ。
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- 梶田 理(かじた おさむ)
- トヨタコネクティッド・チャイナ董事長
- 中国の3つのディストリビューター(GTMC、TMCI、FTMS)の基幹システムを構築したトヨタのシステムのプロ。2005年のGTMC立ち上げでは、たった一人で基幹システムのプロジェクトリーダーとしてe-CRBチームとの調整や外部協力会社との折衝にあたった。2008年1月に友山とGTMC入りし、SLIMのデータ連携部分を任される。GTMCの基幹システムに一番詳しい男として、藤原、小島とともにSLIMプロジェクトの成功に貢献した。元々、基幹システムが専門領域だったが、SLIMでの経験からサービスを提供するシステムの楽しさに目覚める。
豪放磊落に見せかけて、実は緻密な計算に基づく賭けを得意とする勝負師、難題ほど燃える。誰よりもTCCNのことを考え、社員とその家族を大切にしている。それゆえ、以前は、ほぼ仲間とほぼ毎日日付が変わるまで飲み歩き、時にお酒が過ぎることも。家族を何よりも愛し、目下の悩みは、自分に似て暴れん坊の双子の男の子の教育。