トヨタコネクティッド20周年企画連載 虹を架ける仲間達

第3章 e-CRBと海外展開

中国でのe-CRBの展開

2003年3月に一度チャレンジしたもののSARSの影響で中断していたプロジェクトCがいよいよ再開されることになった。もちろんこの間にe-CRBはタイでどんどん進化(深化)していた。さらに、中国ではそれをさらに発展させ、「お客様との間に長期的な信頼関係を構築する」という目的の下、販売店の店舗の作り方、接客のあり方、スタッフの働き方やモチベーション・マネージメントまでも変革した。それはひと言でいうならは、「トヨタが考える理想の販売店を作ろう!」という取り組みだった。

中国におけるトヨタ販売店の課題

中国国家統計局の公式統計によれば、中国の自動車保有台数は1990年には550万台であった。その中心はトラックやバスなど商用車や農用車が中心だった。しかし、2000年には1609万台と10年間で2.9倍に増加。なかでも北京や天津、上海などの都市部を中心に自家用の乗用車の伸びが著しく、2000年代に入って、乗用車を中心とした本格的なモータリゼーションの波が中国全土に広がっていくと予想されていた。そのような状況の中、ここでは詳しくは説明しないが結果だけを見れば、日本メーカーの中国進出は欧州メーカー各社と比べると大きく出遅れていた。中でもトヨタの出遅れは顕著だった。2003年時点の中国国内におけるトヨタの販売シェアはわずかだった。
この遅れを挽回するべく、トヨタは中国での販売体制の整備を推進する。2003年に「三大三小二微」の中で三大国有自動車メーカーの一角を担うフルラインメーカーの第一汽車と提携。地域統括のディストリビュータとして FTMSを合弁で設立し、同年11月から営業を開始した。さらに2005年からTMCIが中国でレクサスの展開を開始。2006年には中堅メーカーの広州汽車集団と合弁で設立したGuangzhou Toyota Motor Corporation(GTMC)が生産と販売を開始した。また、これらに合わせて、トヨタの販売店網が再整備され、次々と新しく販売店が展開されていった。
しかし、トヨタ陣営は中国国内の乗用車販売市場では「最後発のディストリビュータ」だった。また、新設の販売店ゆえに、営業スタッフ、サービススタッフはともに若く、経験が浅かった。また中国では1販社1店舗の出店規制があったため、それぞれの販売店が充実した本部機能を持つには限界があった。
「どうすれば短期間で競争力のある販売店を育成できるのか?」「若く・経験の浅いスタッフに一人前のオペレーションを確実に実行させる。それを短期間に実現するためにはどうしたらいいのか?」「広大な中国全土に散在する、それぞれが独立資本の販売拠点に対して、販売店業務の標準オペレーションを隅々まで浸透させ、徹底するにはどうしたらいいのか?」。こうした課題に対する解決策がe-CRBだった。

e-CRB導入がトヨタおよびレクサスブランドの競争力になる

これまで説明したようにe-CRBは「高度に改善され情報化されたディーラーオペレーションを通じて、お客様満足を最大化する」メソッドである。e-CRBを導入することで「エクスクルーシブで洗練されたオペレーションによる『感動』の体験がカスタマー・ロイヤリティを高め、お客様と販売店の間に、強固で持続的な信頼関係を築く」が実現される。会員制WEBサイト「e-TOYOTACLUB」や販売店の統括オペレーション管理システム「i-CROP」などのITはそれを実現するための道具である。これをそのまま裏返せば、e-CRBは「ITによって、標準オペレーションがきちんとできているかをリアルタイムで管理し、その実行をサポートする」CRMプラットフォームとなる。中国でのe-CRB展開では後者の特性が重視された。
若く経験が浅いスタッフでも、短期間の集中トレーニングによって、きちんと標準オペレーションができるようなれば、ITのサポートによって自ずとお客様に感動を与えることができる。若く経験が浅いマネジャーでも異常が可視化されるので、容易に管理することができる。その結果、お客様との強固で持続的な信頼関係を築くことができる。また、e-CRBでは販売店の業務の工程ごとの標準作業がパッケージ化されているので、従来のように改善マンが一定期間、販売店に常駐して導入する手法を取らなくても、短期間のうちに多くの拠点での一斉展開が可能になる。
そして、2005年に日本で立ち上がったレクサスがブランドコンセプトである「おもてなし」によって、欧州の高級ブランドとの差別化を図ったように、同時期、中国ではe-CRBが実現する標準オペレーションをチャンネルブランド構築の一環と捉え、先行するライバルブランドとの差別化、ブランド競争力にしようと豊田と友山は考えていた。
だからこそ、中国でe-CRBの展開が必要だったのである。豊田と友山が最初から「e-CRB展開は中国が本命」といっていたのはこういう背景があったからなのである。
折しも2005年1月には豊田はトヨタの中国本部長に就任。同年6月には副社長に昇進している。これはもう、何がなんでも中国プロジェクトを成功させなければいけない。中国でのe-CRB展開は彼らにとっては、かつてない規模の大戦おおいくさであり、歴史上、最も情熱的な挑戦となった。

2005年中国レクサスの陣

広州駿佳レクサスの店舗の様子
中国での最初のモデル店となった広州駿佳レクサスの店舗外観。広大な敷地の中にショールームやサービス工場があり、日本のレクサスとは比べ物にならない規模の店舗だった。店内も中国らしい豪華さがあった。

最初の挑戦の舞台はレクサス店への導入である。前述したように北京と広州の2店舗がモデル店となり、e-CRBの導入とともに並行して新しいメニューの開発をおこなった。
そして、2005年5月にはレクサスでのe-CRBプロジェクトのキックオフが予定されていた。この開催に合わせて、デジタルメディアサービスでは急ピッチで、現地の活動をサポートし、システム開発や保守・運用を担当する海外事業体Beijing Media Technical Solution(BMTS)の設立準備が進んでいた。
事務所の開設、現地での法人登記と、タイでの経験が生きて、スムーズに進んだ。といいたいとこであるがやはり中国ならではの特殊事情もあって苦労した。そこは小島修や上田利明、三島利也らタイでの経験者が頑張って、なんとか予定通りのスケジュールで北京に会社を設立できた。董事長には小島が就任。総経理には日本のコールセンター運営でお世話になっていたトランス・コスモス株式会社の中国法人「大宇宙」から紀暁恵を招聘して就任してもらった。ちなみに大宇宙の総経理だった中山節氏は、日本に帰化した中国人であり、2003年に友山が初めての中国訪問した際、通訳や現地との調整などを買って出たのがきっかけで、友山とは懇意の仲だった。というより、中山も、友山たちの描く未来に魅了された仲間の一人になっていた。

当時のBMTSオープニングメンバー
BMTSのオープニングメンバー。前列左から二人目が現在は副総経理の光武こばこ。日本から中国の大学に留学し、中国で就職。中国語はペラペラ。数字にも強く、「光武がいたからBMTSは会社が回ってきた」と小島が振り返るようにとても頼りになる女性スタッフだった。DMAPでいえばオーのような存在。海外事業体はどこも彼女たちのようなしっかり者の古参メンバーが経営を支えてくれている。

中国という不慣れな環境下、BMTS設立と中国事業のスタートが短期間で出来たのは、中山のサポートがあったからこそ、といえる。
レクサスのキックオフは2005年5月17日に開催された。いつものことだが準備期間がほとんどないタイトなスケジュールだった。実際にe-CRBのシステムの実演をするために、日本から、みんなで手分けして機材を飛行機の預入手荷物としてハンドキャリーで北京に運んだ。サイズが大きなSMB(Service Management Board)のフレームは半分に切断し、現地で組み立てる方式に改良。トヨタの工場から入手した紙管パイプに入れてサーフボードを運ぶカバーで包んで運んだ。いつもながらの知恵と汗と根性、最後は人海戦術で難題をクリアした。

グローバル版i-CROPとSMBが稼働

2005年7月にはSMBが中国レクサスのモデル店の一つ、広州駿佳レクサスの店舗に設置され、8月からe-CRBの導入がスタートした。ここでは澤田敏之がタイで開発していたグローバル版のi-CROPが稼働した。グローバル版の開発にあたってはタイでは浅井雅弘がサポートに加わり、日本では澤村幸一たちが開発をサポートした。たくさんの機能が拡張され、また稼働後もいつもながらどんどん改善され進化していくi-CROPはもはや澤田が一人で開発できる規模ではなくなっていた。
現場の業務改善は北明健一たちが担当した。広州駿佳レクサスは2005年2月に開業し、e-CRBの導入が始まるまではスタッフが各自の手帳やパソコンでバラバラに管理していた入庫予約をi-CROPで一元管理。連動するSMBで入庫予約や作業進捗の状況を共有した。またCR専門部署を開設し、i-CROPを使った定期CRフォロー活動を展開。定期点検の入庫率は50%から90%以上に向上。また、システム台車の導入により点検作業時間は従来の1時間から26分間へ大幅に短縮された。こうして、中国レクサスの標準オペレーションが作り上げられていった。
さらに新しくi-CROPを使った来店客のフォローなど営業スタッフの販売活動にまで標準オペレーション構築の範囲を拡大。来店客フォローから商談管理までをサポートするSPMの開発も進められた。さらには点検作業の完了を待つ時間や商談開始までお待ちいただく時間にお客様を一人きりで放置しない仕組みとしてCSボードを開発。また、3D画像でクルマの画像を表示し、ボディーカラーの切り替えができたり、オプションを含めた見積もりの作成や商談の記録ができるTCV(Toyota Car Viewer)なども中国から新しく導入された。
こうした改善の現場を目の当たりにした広州駿佳レクサスのアイバン・ユウ社長は当時を振り返って、「e-CRBの導入によって、営業、CR、サービスのスタッフ一人ひとりの日々の活動履歴を販売店の財産として蓄積できるようになった」と高く評価している。スタッフがキャリアップでどんどん転職していく中国においては、顧客情報をきちんと販売店の財産として記録していくことはとても重要な意味があった。また「日々の活動履歴の蓄積はスタッフにとっては個人の成果の証であり、達成感につながる。e-CRBの導入によって現場の意識が大きく変わった。e-CRBはCSとES(Employee Satisfaction)を両立させるシステムでもある」と語っている。
また、こうした活動と並行して、ディストリビュータのTMCIでは田村誠がe-CRBプロジェクトチームを開設。北明たちの活動をサポートするとともに、TMCIの中でe-CRBを修得し、国内の販売店に展開・フォローしていくスーパーバイザーとなるローカルスタッフの育成をおこなった。
その後、モデル店での導入と標準オペレーションの構築を経て、レクサスの他の店舗への一斉展開が実施された。とはいえ、2005年中に開業したレクサス店は全土で14店舗程度だったので初めて経験する一斉展開とはいえ、これは来るべき本戦の前哨戦に過ぎなかった。
カスタマーインへの調整をつづける仲間たちが最高潮の情熱と士気を高め、総力をあげて挑む、中国での主戦場は翌2006年に始まるGTMCでのe-CRB展開だった。

営業の商談管理をSPMで行っている様子
営業の商談管理をするために開発されたSPM。

2006年GTMCの陣

GTMCは2004年にトヨタが広州汽車集団と50%ずつの対等な出資比率で設立した製販一体の合弁会社である。広州の市内中心地からクルマで高速道路を使って1時間以上かかる南沙区に工場を建設。最初はカムリから生産を始めた。タイのTMTの成功経験をベースに設立された。ディストリビュータの機能を有し、自社で生産したクルマは自社で販売する海外の自動車メーカーとしてはユニークなスタイルの会社であった。そして特筆すべき最大の特徴はTPS(トヨタ生産方式)を企業理念とし、TPSとジャストインタイムを実践する会社として設立されたことである。工場の敷地の隣にはサプライヤーパークが設置され、そこには部品メーカーが工場を建設。工場とサプライヤーパークは地下のトンネルで連結していて、そこからジャストインタイムに部品が供給される。それにより物流工程での在庫を最小化するなどジャストインタイムに着眼したさまざまな新しい仕組みが取り入れられている。また、GTMCと販売店との販売ライセンス契約に「ジャストインタイムを実現するためにe-CRBを導入すること」が義務付けられていた。つまり、GTMCのすべての販売店でe-CRBが導入されることが決まっていたのだ。まさにこのディストリビュータこそがe-CRB展開の1丁目1番地。活動の最初の段階からGTMCの全販売店に導入することを前提として、e-CRBは開発されてきたといっても過言ではない。
GTMCの企業理念がTPSとジャストインタイムであることは会社案内パンフレットの最初に明記されており、社内外に広く認知されていた。TPSとジャストインタイムの思想がGTMCの社内はもちろん、販売店のローカルスタッフにも共有されていたので、彼らも自然にe-CRBは当然必要なものと理解している環境にあった。
それゆえ、最初の課題、挑戦すべきテーマは1点に集約された。すなわち、販売店開業日を期日として、中国全土に散在している販売店に対して、速やかに滞りなく一気にe-CRBを展開し、きちんと導入することだった。工場は2006年5月に生産を開始し、販売店開業日は2006年8月15日に決まった。この最初のタイミングで、一斉に開業する販売店数は116店舗だった。これはとんでもない数だった。まだ誰も経験したことのない挑戦だ。この数をクリアするにはたくさんの難関を通り抜けなければならない。お家芸の知恵と汗と根性、人海戦術を持ってして、なんとかなる数字ではない。ここから、空前絶後のe-CRB展開大作戦が繰り広げられた。

トレーニングセンターで集中・集合研修を実施

2005年5月からe-TOYOTA部の森光宏がGTMCに頻繁に出向き、GTMCの中国側の人たちと調整を開始する。そして、程なくして森光はGTMCに出向し、e-CRB推進部を設立。TMCIで立ち上がったプロジェクトチームと同様にe-CRBの指導員やスーパーバイザーの育成などを担うチームを作った。しかし、その人員規模は比較にならないくらいの大きさだった。そして、今後はe-CRB推進部が最前線の司令塔となり、e-CRB展開大作戦の具体的な作戦の立案や指揮が任された。もちろん日本の大本営にいる友山総司令官からは作戦の遅れに対して、矢のような催促や叱責、少しだけ激励が飛んでくる。前線の士官は、いつの時代も上官と現場に挟まれて大変である。
そして、北明健一、鶴田洋介、石川渉、守屋拓也たち歴戦の猛者が広州に送り込まれてきた。この時、鶴田はまだ入社4年目だったが、もう立派な改善マンとして独り立ちしていた。修羅場は人を育てるのであった。彼らはi-CROPやSMB、CSボードの導入を担当した。
そして、e-CRB推進部は広州市内のモデル販売店であるGTMC第一店にe-CRBのトレーニングセンターを開設した。そして、その場所でGTMCとしての標準オペレーションの作り込みをおこない、完成すると、今度はそこに全土から販売店の営業・CR・サービスのスタッフを集めて集合研修を実施した。最初に開業する販売店だけでも116店舗ある。一体、トレーニングセンターには何人の販売店スタッフが集められたことだろうか?
トレーニングセンターではTPSやジャストインタイムはもちろん、e-CRBについて徹底的に教え込まれた。さらに、それぞれの業務の標準オペレーションも目を瞑っていてもできるくらい身体に叩き込まれた。彼らは標準オペレーションをここで身につければいいだけではない。集中研修で習ったことを販売店に帰ってからは彼らが指導員となって店舗のスタッフに教え込まなければいけないのだ。e-CRBトレーニングセンターは短期間で一人前の改善マンを養成する道場だった。
またi-CROPの販売店導入マニュアル作りをサポートしたのが並木守である。並木はもともと国内の販売店に勤務していて、最初は友山たち業務改善支援室から改善活動を学ぶ立場だった。その後、販売店の社内で改善マンとなり、勉強のため、トヨタに出向して、日本国内の販売店業務支援システムの開発を手伝っていた。それがある日突然、大本営から召集がかかり、北京でi-CROP導入のサポートをすることになり、その後、広州の最前線に応援派遣された。広州戦線には同じような立場の仲間が何人かいたという。とにかくこの時は人が足らなかった。並木は毎朝、ホテルでピックアップに来たクルマに仲間とともに詰め込まれ、南沙のデータセンターに送り届けられた。データセンターからは、建設が進む工場の様子がよく見えた。日ごとにだんだん工場が完成していく。「自分のような人間でもあそこで生産されるクルマがお客様に届くお役にたてれば嬉しい」。並木は工場を見るのが好きだった。
同時期にデジタルメディアサービスから髙橋和巳も広州に召集され、GTMCのオーナー向けサイト「Owner Logs」の制作を担当していた。みんなが広州戦線に送り出されていた。

一夜城で立ち上げたBMTS広州事業所

GTMC販売店へのe-CRB導入プロジェクトが着々と進む中、大きな問題が持ち上がった。GTMCの中国人幹部から、「広州に事業所のない会社からはシステムを購入出来ない」と、突然告げられたのである。BMTSの拠点は北京であり、広州にはまだ影も形もなかった。「大規模な販売店システムを、中国に進出したばかりの日系企業BMTSに任せることはけしからん!」という中国人幹部らの反発が、そういう嫌がらせとして表面化したのである。
友山は、GTMCに出向中の森光に、「広州事業所は建設中だ!」と伝えるよう指示した。すると森光が真っ青な顔をして友山のところに来て、「まずいことになりました、中方(中国人幹部のこと)が、来週、その事業所を見せろといっています」。
それを聞くや否や、友山は梅氏に電話した。梅氏は、広州で広東華智(Whizen)というIT企業を立ち上げた若手の創業者であり、友山の群馬大学の後輩でもある。梅と友山は10歳以上、離れているが、梅はOBである友山のことを、先輩、先輩…と呼んでした慕っていた。友山が「梅さん、いますぐ、オフィスを半分貸して欲しい。ついでに、1日だけ、社員も貸りたい」と告げると梅氏はその場で快諾した。それからである。BMTS総出で、梅氏から借りたスペースに、広州事業所らしきオフィスを徹夜でつくり上げた。ついでに、e-CRBの店舗をかたどったデモルームも設置した。
翌週、GTMCの中国人幹部が続々と訪問して来た。オフィスの入り口には、「BMTS広州事業所」の看板が堂々と設置されていた。中は広々としていて、多くのスタッフが働いていた。(実は、ほとんどのスタッフが、梅氏の会社からその日だけ借りたものだったが…)
友山は、最後に、訪問団をe-CRBのデモルームに招きいれると胸を張ってこう述べた。
「いま、見ていただいた広州事業所は、BMTSが、GTMCの全販売店にe-CRBを導入していただき、たくさん儲けていただくために設立したものです。GTMCの頼りがいのあるポンヨウ(友人)となれるよう努力していく所存です」。それを聞いた中国人幹部に、もはや誰一人として、BMTSをこのプロジェクトから外そうと画策するものはいなくなった。北京にBMTSを設立してから、まだ3ヶ月しか経っていない2005年8月のことだった。

大変だ!システム台車の製造が間に合わない

BMTSの董事長となった小島には重大なミッションがあった。そもそも全部、重大でハードなミッションに思えるが、これは極め付けだった。それは8月15日にオープンするGTMCの116販売店のためにシステム台車を開発・製造し、販売開業日までに納品を完了することだ。システム台車は車両の点検作業で使用する工具などが一式揃えられていて、作業員の動作のムリやムダが出ないよう工夫された改善ノウハウの塊。これがないとクイック車検はできない。初代システム台車は1996年にカローラ香川のサービス改善で考案され、その後、改良が加えられ進化してきた。点検作業は車両1台あたり、2人の作業員がそれぞれ1台ずつのシステム台車を使って実施するので、2台で1セット。GTMCには、各販売店に2セット(4台)ずつ、合計464台。これを納期までに納める約束をしていた。
なぜGTMCへのe-CRB導入になって突然、システム台車の開発の話になったかというと、タイには日本で青台車と呼ばれていたシステム台車がすでに導入されていたので、開発や新規調達の必要はなかった。中国レクサスの場合は日本のレクサス店に導入した最新のシステム台車を日本から輸入して購入してもらった。これはステンレスでできており、車両から取り外したタイヤを一時、置いておくホルダー部分がリフト方式になっていて上下に動く。だから重いタイヤを抱えたり、手で持ち上げたりする必要がないので、非力な女性スタッフでも点検や整備の作業ができるという優れもの。しかし、その分、めちゃくちゃ高い。そして、完成品を中国に輸入すると馬鹿高い関税が賦課ふかされるので、軽自動車の新車が1台買える金額になる。展開する店舗数も少なく、レクサス店だからムリして購入してもらったがGTMCは無論、そんな高いものは買えないという。
中国現地生産しか方法は残されていなかった。そこで日本で中国生産用に、組み立て加工が難しくないシステム台車を設計してもらい、図面を持ち込んで中国の会社に依頼して試作品を作ってもらった。まったくダメだった。これは設計からやり直さなければ、中国では作れない。小島は途方にくれた。納期は刻々と足音を立てて迫ってきていた。
そんな時、日本で前年にオープンしたレクサス向けのシステム台車の部品が余ってしまい、トヨタの担当者が困っているという情報が小島に入ってきた。「これしかない!」。小島はこれにすぐ飛びついた。部品を日本から送ってもらい、自分たちで組み上げて納品しようと考えたのだ。しかし、輸送は安い海運を使い、部品輸入だから関税が安いとはいえ、元々が高額なレクサス向け台車である。GTMCに提示した予算では数千万円の赤字が出てしまう。「大変なミスをして、会社に大損害を与えてしまった」。2006年5月1日のことだった。開業日まであと3ヶ月余りと迫っていた。
小島は日本に帰国して友山に詫びを入れた。しかし、こういう時の友山はたいがい優しい。「まあ、今回は仕方ないな。とにかくGTMCとその先にいるお客様の期待に応えることが一番重要だからね」と励ましてくれた。
しかし、例によって、自分たちで組みあげる作業は難航した。広州のデモルームのスペースに組付ラインを作り、組み立てをした。広州に来ていた木稲哲郎や辻本守、そしてBMTSのメンバーも手伝ってくれた。組立要員も新たに採用した。GTMCに常駐している改善メンバーに助けてもらい、TPS(トヨタ生産方式)の力も借りた。組立ラインを1台流しにし、歩行のムダなどを排除した。それでも、間に合わなかった。8月15日に配り終えることができるのはどう計算しても各販売店1セット(2台)しか納品できない。GTMCに対してはただただお詫びするしかなかった。結局、すべての販売店に2セットずつを配り終えたのは9月11日だった。

システム台車の写真
中国では最新式のタイヤホルダーがリフトで昇降するモデルが採用された。

お客様の笑顔を見れば、活力が湧いてくる

また、小島はSMBの展開でも頭を悩ませていた。流石にこの設置のためだけに、中国全土に116ある販売店を回る訳にはいかない。日本のFSASのような会社があれば問題ないのだが、見つからなかった。それでSMBの筐体きょうたいであるフレームをマグネット式にしてパソコンのモニターをホールドできるように改良し、取り付けもドライバー1本があれば簡単にできるように改善した。パソコンにはあらかじめDELLの工場で出荷時にソフトをインストールしてもらい、電源をさせばすぐ使える状態で出荷した。これはあのMu-Boxでも使った方法である。そして、運よく取り付けだけならやってくれる業者が見つかり、この問題は解決した。
他にもこの手の苦労話や笑えるエピソードは山ほどある。それにしても、いままで紹介したエピソードは中国にシフトしてきて、1年とちょっとの間にすべて起こったことである。そのことからも中国での展開がいかに大変だったかご理解いただけると思う。
これまでもe-CRBに限らず、さまざまな現場で苦労して疲れ切っている人たちの姿はたくさん見てきた。側で見ている限りでは、やはりe-CRBの改善現場の人たちがダントツで大変そうだ。しかし、彼らは妙に元気で明るい。生き生きしているように見える。逆に、オフィスでG-BOOKなどの開発をしている人たちの方が辛そうに見える。やはり、パソコンの画面を相手に仕事している人、ネットでしかお客様につながっていない人たちに比べて、e-CRBの現場の人たちは目の前に販売店のスタッフやお客様の姿があり、場合によっては直接、言葉を交わすこともある。お客様の感動した声や笑顔を見ることができる。それがきっと彼らの活力の源なのだと思う。だから彼らは頑張れる。そしていつも楽しそうに仕事に没頭しているのだと。

BPレール設置の様子
ボディショップにBPレールを設置するBMTSのスタッフたち。

GTMCは販売開業日以降も順調に店舗数は拡大していった。その全店舗でe-CRBが導入されている。同時に、e-CRBはGTMCの現場でどんどん深化し、改善されていった。また、e-CRBがカバーする領域もどんどん拡大し、新しいシステムが拡張されていった。
そして、ついにはBP(鈑金塗装)の現場にまで導入されている。2008年5月31日。深圳にある広州トヨタ深業店のBPボディショップには、鈑金塗装作業を流れ作業でやるためのレールが設置された。そんなレールの設置工事までBMTSは請け負った。しかもやらされたのは、大概、日本から応援で出張派遣されたトヨタメディアサービスのスタッフである。そこには慣れないレール設置工事でヘトヘトになって、コンクリートの床に寝転がる降矢良之や渡辺友介たちトヨタメディアサービスのスタッフの姿があった。彼らに何があったかはご想像にお任せする。

広州でe-CRB世界大会を開催

2006年11月7日と8日の両日、広州で第1回e-CRB事例研修会(世界大会)が開催された。そして、アジアだけでなく世界中から120人を超えるトヨタのディストリビュータ関係者が広州に集った。日本からもトヨタの関係者をはじめ、若き日の久恒兼孝カローラ博多社長、山口茂樹前ネッツ東名古屋社長、北島義貴カローラ徳島会長など、有力販売店のトップも多数参加していた。そして、もちろん豊田章男トヨタ自動車副社長も参加。第1回e-CRB事例研修会はとても盛大な会議となった。
ホテルの大ホールで開催された全体会議では、世界で初めてe-CRBを導入したタイのトヨタ・トンブリ、そして中国レクサスとGTMCの導入事例が発表された。その後の改善現場の見学会では、広州駿佳レクサスとGTMC第一店に移動して、最新のi-CROPとi-CMS、SPM、SMBなどのシステムやクイック車検などの説明と実演がおこなわれた。この時点で広州はe-CRBに関しては世界最先端だった。そのことはe-CRB導入に関わった現地の中国人スタッフにとっても、とても誇らしいことであった。この事例研修会では、国籍の壁を超えて、新たな時代の販売店オペレーションに挑戦する同志たちの輪が確実に広がっていることが確認できた。

第1回e-CRB事例発表会の様子
広州で開催された第1回e-CRB事例発表会の全体会議の様子。

デジタルメディアサービスからトヨタメディアサービスへの社名変更

e-CRBのアジア、中国展開が着々と進み、タイのDMAPや中国のBMTSといった海外事業体がその事業を急拡大する中、その本体である日本のデジタルメディアサービスにも大きな変化が起きていた。WiLL CYPHAに初搭載された車載通信サービスG-BOOKは、2005年からレクサスにG-Linkというブランド名で標準搭載され、レクサスの『おもてなし』サービスの中核として位置付けられた。また、G-BOOKは、G-BOOK ALPHAに進化し、エアバッグが作動した際に自動通報する機能を備えるなど安心安全サービスを充実させ、多くのトヨタ車に搭載されるようになった。
デジタルメディアサービスの事業基盤は、創業時のコンビニ向けe-Towerから、トヨタグループの販売流通分野のIT化や、クルマの情報化など、トヨタのIT戦略に深く関わるようになってきた。というより、トヨタの顧向けIT事業を開拓する先兵たる存在になりつつあった。また、システムが高度化、グローバル化するにつれ、提携するIT企業も国際的になり、それらとデジタルメディアサービスはトヨタの顔として付き合うようになった。
そのような状況下、デジタルメディアサービスの資本構成の見直しが図れた。つまり、デジタルメディアサービスの株式の25%を占めていた富士通グループの株をトヨタが買い取り、トヨタ100%の子会社しよう、ということになったのだ。さっそく、豊田と友山は、富士通にそれを申し入れに行く。当時の富士通の秋草社長は「せっかく、トヨタさんとの大きな夢が動き出したのに残念です…」と少し顔を曇らせたが、豊田が、「富士通さんは、これからも本妻ですよ」と告げると、株式を手放すことを了解してくれた。
100%子会社化が完了すると、2008年2月、デジタルメディアサービスはその社名を、トヨタメディアサービスに変更し、名実ともに、トヨタグループのIT戦略事業体として新たな成長を目指すことになった。

トヨタメディアサービスの会社案内から抜粋(2009年)

現場の想いを五感で捉え
新たなビジネスを創造したい

友山 茂樹

トヨタメディアサービスって何している会社?と思われる方が大半ではないでしょうか。「トヨタの顧客向けインターネット事業、例えば、GAZOOやG-BOOKをやっている会社だよ」というと「ああ…」とうなずく方もいるかもしれません。しかし、放送局でもないのに、どうしてメディアと名前が付いているのでしょう。
実は設立以来、ガズーメディアサービス↓デジタルメディアサービス↓トヨタメディアサービスと、3度社名を変更していますが、メディアという名前は一貫して用いてきました。なぜなら私たちはIT企業でもネットワーク会社でもなく、「メディア=媒体」を提供する企業でありたいと考えているからです。それはISP(インターネットサービスプロパイダー)やTV局のようなものではなく、モノを造る人、売る人、使う人を有機的につなぎ、新しいビジネスのあり方を創造するための媒体なのです。
媒体のあるべき姿は「伝える」こと。例えば、メーカーの想いをディーラーに、ディーラーの想いをユーザーに、ユーザーの想いをメーカーに伝えることです。WEBサイトやe-CRB、G-BOOKなどを駆使して。ユーザー・ディーラー・メーカーをネットワークでつなぐ事業を展開してきたのは、私たちが媒体として「伝える」責任を果たすために他なりません。
そして、その中で最も重視しているのが現場主義、現地現物なのです。工場のエンジニアや営業スタッフ、コールセンターのオペレーターにおいても、現場にはそれぞれ伝えたい想いがあります。ただそれは机上からでは見えません。だからこそ私たちは、トップからスタッフまで、とにかく自分の足で現場に出向き、現場の人々の想いを五感で捉えて、その現場に即したシステムやオペレーションを提案させていただいています。私たちは、私たち自身も「人」と「人」、「人」と「社会」をつなぎ、新しいビジネスを創造するメディアでありたいと思っています。

鈑金工場で友山の改善指導(広州第一店にて)
鈑金工場で友山の改善指導(広州第一店にて)。もともと友山の専門はIT事業ではなく「トヨタ生産方式」に基づく改善指導であり、製造ラインから販売店まで数多くの改善を手掛けていた。よって、トヨタメディアサービスが提供するシステムには、友山たちが現場で培ってきた長年の改善ノウハウが織り込まれていた。「全社員が改善マンであるべき」というトヨタメディアサービスのポリシーは、友山自らが、客先の現場に出向き、持ち前のアイデアと改善力で事業を拡大して来た経験に裏付けられていた。

この章の登場人物

  • 森光 宏(もりみつ ひろし)
    トヨタ自動車 コネクティッドカンパニー コネクティッドビジネス領域 統括部長
    総務部からやってきた、改善を生業とする友山たちの仲間内では異色の経歴。2005年に特命を受けてGTMCに出向。友山からは「お前なんかじゃ全然足りないけど(役不足)他にいない。消去法だ」といわれた。そして、GTMCにe-CRB推進部を立ち上げ、部長に就任。e-CRBの全店舗展開をやり遂げ、サービス入庫率90%以上を達成したときは、ちょっとだけ褒められた。「製造/販売が一体になった会社を一から立ち上げるメンバーとして参画し、周りは各領域や機能のプロばかりで、本当に多くのことを学びました。また、役員になる直前の友山さんが現場にどっぷり入って仕事をしていたので、とても厳しく指導頂きましたが、沢山の仕事の引き出しが増えた気がします。そういう意味で幸せでした。」と当時を振り返る。名古屋グランパスの熱烈なサポーター。
  • 石川 渉(いしかわ わたる)
    広汽トヨタ有限公司(GTMC)MaaS推進部長 業務改善部長(兼務)
    2003年のタイ、e-TOYOTACLUB立上げ時のプロジェクトマネージャー(PM)として、当時の富士通グループ会社からGMSに常駐していた。誰に対しても歯に衣を着せぬ発言をする為、現場での衝突は日常茶飯事。感情がすぐに表に出るタイプで、よく笑い、よく泣き、よく怒るが、その人間力の強さから部下や同僚はもちろん、上司からの信頼も厚い。e-TOYOTACLUB立上げ後は、トヨタ自動車への出向社員となり2006年~7年のGTMCでのe-CRB立上げプロジェクトの全体PMとして全身全霊で挑み、その成果が認められて、トヨタ自動車の一員となる。ちなみに大学生時代はゴルフ部に所属しており、プロ並みの腕前を持つ。
  • 並木 守(なみき まもる)
    トヨタコネクティッド ソリューション開発部長
    1997年販売店勤務時代に北明らと出会い改善を学び、物流改善やGAZOO端末の展開に携わる。身につけた改善精神とシステム開発能力が買われ、GTMCプロジェクトを担当した。現地ではi-CROPやSMBの導入で活躍。当時のことは、「忙しすぎて覚えていない」というほど目まぐるしい日々の中、日本で培った根性でやり遂げた。唯一、一息ついた時間は仲間との宅飲み。当時、同じく中国滞在中の酒に詳しい高橋のホテルの部屋へ行き、日本から持ち込んだウィスキーとチーズで晩酌し、夜な夜な語り合った。おおらかな性格で、誰とでもフランクに接する。現在も、販売店改善のシステム部門長として後進を指導している。ここ数年の週末は子供のサッカー観戦が定番。
  • 降矢 良之(ふるや よしゆき)
    トヨタコネクティッド コーポレートIT部長
    2001年7月に、e-Towerのコールセンター問い合わせ対応のため、小島に引き抜かれてTCに入社。当時はリーゼント頭でいかつい見た目をしていたが、障害が多発する現場でも一切動じず、冷静に問題の対処にあたる。一方、温情派でもあり、教え教えられる関係を大切にし、職場の指導のみならず、部員とキャンプに行ったり、酒を酌み交わしたり公私ともに仲よくする。
    飛行機嫌いのため、最後まで中国への出張を拒んでいたが、2006年に小島、山田(竜)、辻本の滞在期限のため、一人で交代要員として約1か月出張。中国での生き残り方を身につけ、BP用のSMB開発では、現地の郭とタッグを組み、現地の協力会社を巻き込んで開発をぐいぐいと推進していった。

著者プロフィール

  • 宮崎 秀敏(みやざき ひでとし)
    ネクスト・ワン代表取締役
    1962年、広島生まれ。1997年リクルートを退職後、ひょんな縁で業務改善支援室の活動に帯同。
    98年、同室の活動をまとめた書籍『ネクスト・ワン』(非売品)を上梓。会員誌の制作やコミュニティの運営などでGAZOO、G-BOOK、e-CRB、GAZOO Mura、GAZOO Racingなどの立ち上げに協力しながら取材活動を継続。